セクハラ報道に物申す

岐阜県岐南町の町長が「心が折れて」辞職した。その間、報道各社のコメンテーター達は、まるで野犬集団の合唱のように、寄ってたかって小島町長を一方的に非難した。

自分は、それにいささかの疑念を抱いている。

まず、ハラスメントという新語が、最近いとも簡単に使用され過ぎているのではないかと思う。まして女性が何かを訴えると、すぐに「セク」なる冠頭詞をつけてしまって同情する風潮があるのである。

ハラスメントとは仕手(行う人)と、され手の意図と受け取り方によって、大きく変わって来るものである。仕手(行う人)がそれを意識してやったか、受け取り手がそれに不快感を抱いたかによって、同じ行為であっても、成立する場合としない場合があるのである。但し何でもイヤイヤという人間もかなりおり、何でもハラスメントの元となりうる、ストレスだらけの世の中であるのは否めない。

但し、後出しゲームのように「ミーツー」と今になって、合唱するくらいなら、何故99件もの「セクハラ」を受ける度にその場で異議を唱えなかったのか。卑怯な集団群衆心理のようにも思える。その場でその都度、小さくても抗議を受けていれば、町長も少しは身を引き締めていたのではないか。

また、職員との間に信頼関係があれば、成立しなかった「セクハラ」も多くあったのではないであろうか。ちなみに、うちの職員は私の腕の盛り上がった血管を「気持ちいい」と言ってしきりに触りに来る。また二人の職員が私の前と後ろに来てふざけて、腹で私を挟み撃ちにしてしまったこともある。私の乱れた髪を、手で勝手になおしてくれたこともある。私がパンツ一丁になって診察着に着替えている時に、堂々と部屋に入って来るのは、しょっちゅうである。私も毛のないツルツルのスネを彼女らに披露したこともある。彼女らの頭を撫でて褒めることも、しばしばある。ご苦労さんと言って肩に触れることもある。患者さんにいただいたお菓子を皆で分け分けするのは、しょっちゅうである。いずれも今のところ、嫌な顔をされたことはない。

このようにお互いが信頼しあい、尊敬し合い、家族のように仲良く協同で仕事をしていれば、何の問題もないのである。

急に裏切られ、マスコミの恰好の餌食になっている小島町長にも、弁解の余地はあるのではないか。但し村八分にあい、大人の世界のイジメを思いきり受け「心が折れてしまった」のでは仕方がないが。

2024年3月7日 八杉誠


風に立つライオン

自分は今まさに映画の「風に立つライオン」状態にあると思う。今年も300枚くらいの年賀状をいただいたが、その中で数枚に「発熱外来をしていただいて有難うございます。敬服いたします」と言う趣旨の添え書きがあった。見る人は見て、評価する人はしてくれているのだなと、とても嬉しい気分になった。

昨年末厚労省が全国に向けて、発熱外来をする医者を募集したところ、応じた医者は全国でたった25,000人だけだった。そのうち大阪府では1,000人ばかり。府がそのホームページに公表して良いかを問うたところ、応じたのがごく僅かで、特に北区では400人の会員のうち、たった5人という有様。皆「風評被害が怖い、うつされるのが怖い」らしい。なんという体たらくなのか。何という無責任なのか。君達は何の為に医者になったのか?あらゆる業者が被害に遭っている中、自分だけがのうのうと、ぬくぬくと稼いでいようと言うのか?医者仲間がこんなに卑怯な集団だったとは、まさに愕然としている。君達は今の為にストイックな生活を送り、日々鍛錬をしてきたのではないか?

確かにウナギの寝床みたいな間口の狭い、借りビルの一室では、二箇所の入り口、二本の導線を用意するのは不可能かもしれない。それだったら、今後の医療機関を認可する際には、そういう条件をクリアしていないと、認可をしないという規則を作るべきである。なぜならコロナはまだ序の口だからである。サーズは致死率は高いが、伝染力は余り高くはなかった。これが第1陣。コロナは致死率は余り高くないが伝染力は非常に強い。これが第2陣。そしていずれくるであろう第3陣が強烈な伝染力と非常に高い致死率を併せ持った殺人ウイルス。世界は壊滅的になるであろう。陰圧隔離室は今後医療機関として、必須の条件である。

毎日7~8人のコロナ疑いの患者を診て、毎日1~4人のコロナ患者を見つけ、捨て身で初期治療をしている自分は、70歳を越しており、いつうつされるかわからない。いつ自分がミイラ取りのミイラになるかわからない。しかし自分はそうなったらそれで良いと思っている。それが医者の本望だと思っている。これが最後の世の中への恩返しだと思っている。

為政者は国民の目を逸らそうとして、オリンピックを開催しようとしている。しかしワクチンがギリギリ間に合ったとしても、それがこのお祭りの役に立つとは、とても思えない。マスコミは選手の防疫、会場の予防策などばかり注目して宣伝しているが、本論はそこにない。問題はワクチンも受けず、PCRもニセの証明書を携え、マスクもせずに堂々と渡来する、フーリガンもどきの、質のワルーイ外国人どもである。奴らは試合会場でマスクも着けず、大声でワメキ散らすであろう。そして夜な夜な町に繰り出して、泥酔したまま思い切りコロナを撒き散らすであろう。そして日本人にうつし回るばかりか、自分自身が重症になっても、医療費ひとつ払う金はないであろう。事の始まりの、ダイアモンドプリンセス号がそうであった。あの乗客達の治療費、対策費、滞在費、食費すべて日本の税金28億円を使って対処したのである。オリンピックを開催したら、その何十倍、何百倍、いや何千倍もの財政支出が必要となり、経済効果どころか、逆経済効果が生まれる事は、想像に難くはない。

いずれにせよ、こんな変わった院長にひたすら付いて来てくれる職員がかわいい。感謝感激雨あられである。いつまでもこの幸せが続くように、祈って邁進する毎日である。

2021年1月5日 八杉誠


ノーマスク搭乗者に対する相次ぐ退機命令に思う

当院では、大型空気清浄機・陰圧隔離室・玄関前待機駐車場・N95使用など院内感染に関しては人一倍気を使って、徹底しているつもりである。
その中で最近報道されている、ノーマスク搭乗者に対する相次ぐ退機命令には、一抹の不安を感じざるを得ない。
まずその客にコロナを疑わせる症状でもあったかどうかである。体温は乗る前に測っていてパスしている筈であるし、咳もしていない様子であるし、二十歳前後の遊び人でもなかろうし、静かに座っている乗客の感染源としての可能性は99.9999パーセントないと考えられるのである。
万が一当人が無症状患者であったとしても、換気の行き届いた空いた機内では感染の可能性は極度に低いと考えられる。にも拘らず、無理やりマスクをしておけというのは、個人の自由をあまりにも束縛するものであり、かつ個人の尊厳を無視するものである。
航空会社の内規では、客にマスク着用を勧めることになっているのかも知れないが、それはあくまでも法律ではない。にも拘らず寄ってたかって皆で非難するのは、まるで戦時中の再来を想像するのである。盲目的且つ付和雷同による「ハイアーヒトラー」、国内では特高による戦争反対者の逮捕、赤狩りと称した迫害、と同じではないか。日本人はその国民性でもってまた同じ過ちを犯しているのではないだろうか。全体主義的性格に危険性を感じる。
降ろされた客が騒いだとか、暴れたとか言う噂もあるが、あったとしてもそれはまともに考えもしない、愚かな周りの客や乗務員が刺激して、そうさせたのではないだろうか。降ろす口実作りに。
いずれにせよ、「少々のビールスが入ってきても、跳ね返してやるぞ」という自信を持てるだけの体力作りと健康維持の努力を何もせずに、「お前出ていけ」は余りにも身勝手で、安易な責任転嫁と言わざるを得ないのではないだろうか。

2020年9月14日 八杉誠


良い医者?ニセ医者?

皆さんは、心身ともに健康で明るい医師に診てもらいたいですか?あるいは口先だけの調子の良い医者、または立派な資格だけをいっぱい持っている無表情な医者にかかりたいですか?
自分は自分が患者になった時にこんな医師にかかりたいなとイメージして最近以下のような理想の医師像を描いて、それを証明してもらう為にしばらく前に二つの医師団体に以下のような提案をしました。
ところがいつまでたってもどこからもいっこうに返事がないために、問い合わせてみたところ意外な返事が返ってきました。それは自分にとっては当たり前のような各項目が、「ほとんどの医師会員には充たせていないので認定制度は難しい」との事であった。自分としては「すべての項目ではなく、せめて8割でも充たしていたら認定してよいのではないか」と提案しましたが「それでも・・・」という返事でした。
なんと情けない現状でしょうか。自分としては「たったこれだけのこと」が殆どの医師には無理なことなのかと愕然とした。ニセ医者ばかりのような気がした。皆さんはどう思われますか?ちなみに私は勿論すべての項目をみたしています。

「大阪府内科医会・保険医協会への提案」
健康優良児ならぬ、健康優良医師認定制度の創設について
我々医師は患者様方の健康を願い預かる者として、自らが心身ともに健康でないと、患者様方に対して、充分な説得をする事が出来ません。そのような立派な医師をいずれかの機関が顕彰し保証する事が必要かと思います。そうすれば患者様は安心して、そのような医師に体を任せ、信用して相談する事が出来るのではないでしょうか。然るに全国的にも全世界的にもそのような事をしているところがありません。したがって我々が全国に、いや全世界に先駆けて「認定医」制度創設をもうける事を提案します。
例えば以下のような用件の内いくつかの項目を充たせば、院内に掲示出来るような認定証を発行するのはいかがでしょうか。

・週1回以上体力作りをしている
・早寝早起きで睡眠は7時間以上とっている(昼寝も含む)
・医師会の生涯学習終了の認定を受けている
・医療裁判をかかえていない
・BMIは25以下である
・タバコは吸わない
・二日酔いするような深酒はしない
・高血圧はない(治療中も可)
・伝染病は持っていない
・5種類以上の薬を飲んでいない
・良い趣味を持っている
・(女遊び)夜遊びをしない
・賭け事はしない
・良い家庭・職場環境に恵まれている
・少なくとも以上の状態が3年以上続いている
などなど

2018年12月10日 八杉誠


前略 ●●●様

 先日は近況報告有難うございました。お元気なようで何よりです。
当方はリタイアするにできず、夏には4000メートルの高さを求めてスイスのマッターホルンに行ったり、秋には5000年の昔を求めてエジプトに行ったり所謂現実逃避を試みています。

 というのも日本に帰って来たらまあ下らない話ばかり。特に最近最も報道されている消費税の軽減税率などは最たるもの。
 食わなくては死んでしまう食べ物に迄消費税をかけるなど、血税そのものなのである。それを10パーのところ8にしておいてやるなんて、人をばかにしたような話である。軽減と言うならいっそ0にするのが筋でしょうが。それをマグロだけの刺身なら生鮮で8、鯛が入れば加工で10などと誠しやかに議論している政治屋とその手先のマスコミの欺瞞ぶりに我慢がならない。何だと税源がないだと?汗水たらして働いても所得税と言って取られ、残ったなけなしの金で食い物を買おうとしてら又消費税と言って取られ、二重どりしておきながら税源がないなどとは言わさないぞ。

 なにも肉体労働ばかりが大事と言うのではないが、世の中汗水たらさず指先一つ、口先一つで濡れ手に粟の大儲けをしているずるい連中が一杯いるではないか。まるでゲーム遊びのように株をあっちに転がしこっちに転がしして、左うちわの連中が。一般国民の収入からの引き去りは30パーセントなのに株貴族の収入にかかる税金がたった20パーセントとはどういうことなのだ?そんな連中からは50パーセントでも80パーセントでも徴収すれば良いのだ。そうすると税源不足などいっぺんに解消できるはずである。株に回す金はなにもそれがなければ今日明日の食べ物が買えないという性質のものではない。マネーゲームなのである。それに比べると労働者の持ち帰り金は即食う為の金なのである。死活問題なのである。

 しかしテレビなどのコメンテイターもそこに言及しない。まるで報道管制のようだ。新聞界は政治批判をせず、うまく軽減税率の恩恵にひたったようだ。政治屋は株遊びの資産家や企業からいろんな形での賄賂を受け取り、彼らの思い通りの徴税・政治をしているのである。まるでフランス革命直前の、貴族・近衛兵・一般市民の構図と同じではないか。日本は頭の上を鉄砲の弾が飛んだり、外国のテロリストが入って来にくいからといって平和ボケしている場合ではないのではないか。いつまでだまされ続けているのだ。社会構造改革をしなくてはならないのではないか。「社改党」でも誰か立ち上げてくれないものか。

 毎日4キロのダンベルを600回持ち上げ、スクワット100回、足上げ腹筋100回、拳立て伏せ100回締めて約15分を朝夕の診察の前に一日2回、薬代わりにしています。また火曜日には道場に出向き皆と練習、金土日には時間のある限り地下の自宅道場でサンドバック突き蹴りをしています。体脂肪17パーセント。絶好調です。
 自分を救うものは自分しかありません。残り少ない人生を大事に謳歌しています。
また。

草々

2015年12月17日 八杉 誠


こよなく日本を愛する 世界に例を見ない日本の魅力15

自分は日本に生まれ育ち、66年間日本に住んできて幸運だったなよかったなと、最近つくづく思うようになった。それは天皇を崇拝したり、旗を振ったりするようなドグマチックなものではなく、純粋にナチュラルなペイトリオットとしてそう思うのである。今までいろんな国を旅してみたり、いろんな情報を見聞きしてみてもやはり結局は日本ほど良い国は他になく、この経験に基づく事実を外国の人たちにも是非紹介したいとさえ思うのである。

1 安全で平和な日本:日本の新聞などで扱われている殺人事件や発砲事件は、我々日本人にとっては目を奪われるような事件であるが、それらは外国においては日常茶飯事すぎて一々記事にすらならないようなものである。それは明治維新において刀狩りをした事によって、基本的にわが国内には武器が横行していないからである。ライフル協会や質の悪い警官も存在せず、基本的に治安を信頼できるからである。日本では背を向けて逃げる市民に向かって警官が8発も銃を撃つどころか、襲い掛かってくる暴漢の足に向けて一発威嚇発射しただけでも、その是非を問うような記事が報道される位である。又先の戦争の経験から、戦後70年間不戦を誓い続けて、一発も他国に対し発砲した事のないのも自慢できる実績である。
又日本は訴訟の少ない国である。アメリカでは「ベイビーキッサ-」= 赤ちゃんを見つけるとやたらキスをしに行って票を稼ごうとする政治屋、「アンビュランスシーカー」= 救急車を追いかけては裁判をけしかける悪徳弁護士、と言う俗称があるように、何かあれば裁判にして金儲けをしようとする一般人と裁判官が横行しているが、日本ではおよそ言われのない言いがかりで訴えられることはない。泥棒に入ろうとしたら屋根が抜けて落ち骨を折った犯人が、家の持ち主に「人が乗ったら破れるような屋根を作るな」と家の持ち主を訴えたと言う話は有名であるが、日本ではそのような馬鹿げた事はおよそない。安心して暮らせる世の中なのである。

2 正直な日本人:日本でお金を落としても、それが持ち主に帰るパーセンテイジは実に90パーセントである。イタリアなどでは、お金がもどるどころか、一番神聖なる祭壇の前が一番危険だと現地ガイドから注意を受けた。スリは神から与えられたいただき物だとか。自分の兄はロシア旅行をした時、夫婦で朝の散歩中3人の警官にパトカーに押し込まれパスポートを取り上げられ、約3万円と交換に開放とパスポート返還を受けた。付き添いガイドに申し出ても「そんな事はここではよくある事なので知りません」だとか。自分もデンマークのチボリ公園入り口で写真撮影中に、隣に擦り寄ってきたアベックに肩掛けカバンを開けられていた。同じツアーの人が教えてくれて間一髪で難を逃れたが、落ちた金を返すどころか、生き馬の目を抜くような事が外国では当たり前なのである。アメリカでは金を拾っても決して警察に届けない。日本のような交番がないせいでもあろうが、苦労して本署に持って行っても犯人扱いされ、「どこで手に入れたのか」と根掘り葉掘り数時間の尋問を受けるのが落ちなのである。

3 親切な日本人:日本のレストランは最高である。まずどんなチンケな食堂でも、店先に本物そっくりのサンプルが置いてあるか、少なくとも写真入りのメニューがそなえてある。外国ではサンプルはおろか、写真すらない。良いとこ日本語のメニューがあったとしても、それがまたフランス語のカタカナばかり書いてあって、自分のような無骨者にはさっぱり理解出来ない。食事を注文している段階で目まいと吐き気を催すのである。やっと注文が出来たとしても水はまず自動的には出てこないし、頼もうとしても担当の店員しか絶対に対応してくれない。始めにしっかりと自分を担当する店員の顔を覚えておかないと、その御仁以外どんなに声をかけても返事をしてくれない。ツンとして横向いてしまわれるか、良いとここっちを向いてくれても、シラーとされるか、ニヤーとして通り過ぎられるかである。チップをくれる客以外には絶対にサービスしてくれない。非常に割り切っていてクールなのである。それに比べ日本の食べどころでは、どの店員でも大抵は愛想良く返事をしてくれる。店全体で接客してくれるのである。まさに日本特有のオモテナシの精神である。
また電車やバスに乗った時につくづく思うことが2つある。まず時間が正確である事。自分の大好きなハワイイでは「No, I’m not late. I’m on Hawaiian time.」という言い方がある。「いや遅れたんじゃないさ、ハワイイアンタイムで来たのさ。」 日本ではおよそ時刻表を信用して良いのである。またそのアナウンスの優しい事。出発のアナウンスに始まり、行き先・次の停車駅・時には到着時間のお知らせ、落し物に御注意迄言ってくれる。ところが外国ではおよそそのようなサービスはない。自分でしっかり自覚して意識して勝手に降りるか、しっかり周りの景色を見ておかないとならない。オモテナシそのものである。

4 多彩な日本食:食べると言えば日本人ほど多彩な雑食人種はいないのではないだろうか。高級なフランス料理をはじめ、肉料理・魚料理・煮物・焼き物・揚げ物、そして生もの・ゲテモノ。特にこの生ものは世界に例を見ないであろう。魚類はいうまでもなく生肉さえも安心して食べられる。肝を生で食べられる国など、世界中どこにもないであろう。それというのも日本は清潔な国だからである。決して我々が野蛮なのではない。法律も整備されているし、第一作る側も良心的に責任感を持って衛生を考えている。ちょっとした異物が入っているだけでも大騒ぎである。またダシや醗酵食品など、外国の人には分らないような微妙な味付けがある。日本人は繊細な舌の持ち主なのである。また食器が美しい。純粋な日本料理は食器を楽しむとも言われている。

5 箸の歴史:微妙で繊細な日本食の味付けに合わせ、我々日本人は巧緻運動の名手である。箸という道具は我々を非常に器用にしてくれている。たった2本の単純な道具で、あらゆる動作を可能にする。挟む・切る・混ぜる・突き刺す、そして口まで持っていく。歯の間に挟まった物まで取ってみたり、歯糞まで擦って取ることすら出来るのである。ナイフやフォークといった武器まがいの食器よりよっぽど安全で、多彩な使い方が出来るのである。自分は外国旅行をする時でも必ず竹箸を持って行く。スパゲッティーでも持参の箸で食べるし、ケーキでも箸で食べる。しかもこの清潔な道具を我々日本人は遥か昔の奈良時代から使用しているのである。ナイフやフォークといった西洋のカテラリーは、フランス革命あたりの、18世紀頃に始めて使用が始まったのである。実にその差約1,000年の開きがあるのである。それまで彼らは手づかみで食べていたのである。この箸の巧緻運動の歴史がどれだけ我々日本人の脳を活性化・刺激し、且つ清潔観念を持たせてきたか、はかりしれないのである。

6 豊富で安全な水:日本では店に食べに入ったら、まず当たり前のようにコップ一杯の水またはお茶が自動的に出てくる。これは我々にとっては当たり前の事であるが、外国においてはまず「イラッシャイマセ」と水と言うサービスはないと考えて良い。頼んだらやっと持ってきてもらえるが、それは有料の事が多い。フランスなどではワインより水の値段の方が高いのである。しかも水道の蛇口から出る生水をそのまま安心して飲めるのは、ここ日本とハワイくらいのものである。外国は我々の慣れていない硬水の事が多いし、我々が耐性を持っていない細菌がいるため、がぶのみするとまず下痢をしてしまう。国によっては出された生野菜を食べても、洗った水が少し付いているだけで腹を壊してしまって、旅行が台無しになってしまう事すらある。日本の水道水はそのままで瓶詰めして飲料水として輸出できるほど清潔なのである。

7 清潔で快適な風呂:水の豊富な日本では大きな湯船とシャワーが別々に設置されてある。シャワーでまず粗洗いをした後、寒い冬がある為でもあろうが、ゆっくりとたっぷりのお湯につかる。そして湯船から出て石鹸で本洗いをしてシャワーでしっかりと洗い流してから、縞麗な体で又湯船につかり最後に駄目押しのシャワーをしてあがる。しかし外国の風呂では湯船のないのが基本である。しかもシャワーヘッドが頭の上に固定されている事が多い。これでは落ち着かないし、第一微妙なトコロが気に入ったように洗えていない。ホース付きのハンドシャワーがないと、大事なところが汚いままで終わってしまうのである。自分のような痔恐怖症には耐えられないのである。一方良いとこ湯船があったとしてもそれは大概シャワーと一体である。従って湯船にお湯をはってしまったら、尻や足も洗わないままダボンと湯船につかってしまわないといけない。そしてそのお湯が顔や頭にかかったら、大腸菌を舐めているようなものである。それにバスタブに石鹸を入れて泡だらけにしてゴシゴシジャブジャブするものだから、大抵は口や目に汚い泡水がかかる。よしや先にシャワーで粗洗いを済ませた後、湯船にお湯を張り始めたとしても、お湯がたまるまでに体は冷えるし、乾いてしまうし、その内眠たくなって酔いも覚めてしまうのである。なぜなら、このお湯ハリ水圧がやたらダサイことが多いのである。排水に至ってはあすの朝までかかるのかと思われるくらいトロイ事が多い。従って上がりがけに足先を洗おうと思っても、残った石鹸混じりの汚いお湯が邪魔をして、結局足の指の股はヌルヌルのまま湯上りするより他ない。かれらの足先は想像するだけで気持ちが悪い。しかも大体くっつくようにして便器が設置されてある。折角の湯上りに、ウンコやシッコが付いているかも知れない便器に脚が触れてしまい、何度気持ち悪い思いをした事か。それが5スターのホテルの常識である。日本では場末のビジネスホテルですらそんな事はまずない。

8 清潔なトイレ:ウォシュレットというのは世界に誇る日本の発明品である。最近ではトイレに入って出てくるまで、パンツを下ろすのと排泄とロールペーパーを使うこと以外何もしなくて良いトイレが多い。しかもそれがどんな陳腐な店のトイレにも大概設置されている。ちょっとした公園のトイレにしてもウォシュレットがあるか、ないにしてもおよそいやな匂いがしない。ところが外国ではウォシュレットにお目にかかる事はまずない。日本人が良く行くハワイでもDFSの特別ルーム以外置いていない。最高級ホテルにも無いし、ヨーロッパに至っては彼らはこの世にウォシュレットがあるという事実すら知らないのではなかろうか。外国ではAIDSが多いせいでもあろうが、我々日本人の清潔観念とオモテナシの精神によるところが大きいと思われる。

9 畳の文化:日本人の足は清潔である。それは靴を脱ぐ習慣によるものである。洋風生活では一日中靴を履いたままである。従って外人の足には水虫が多い。どんな綺麗な女優さんでもその足は水虫で臭いと考えて良いのである。日本では仕事中は靴を履きっぱなしではあるが、家に帰ると靴を脱いで生活する。従ってムレから開放される時間が長い。また玄関から上下・内外を区別しているので、室内は清潔である。幼い子供でも平気で手をついて這いずりまわって、その手を舐めても平気なのである。我々大人でも畳の上にゴロンとするとそれだけでホッとするのである。しかるに外国の家では靴のまま室内を移動するので、室内は路上と一緒である。他人の痰唾や動物の糞が泥土のついたまま家中に蔓延しているのである。家中黴菌だらけである。赤ん坊に至ってはそこを這いずり回るので、病気になって当たり前なのである。外国の乳児死亡率の高い原因の一つにそれがあるのではないかとさえ考えられる。

10 病気をしても安心:日本ほど医療の充実している国はない。しかもそれが非常に高度で安価なのである。日本は戦後の混乱期に否応なしに、世界に誇るべき皆保険制度を導入した。それにより被保険者は誰でも安心して高度で安価な医療を受けられるようになった。その証拠の一つとして最も顕著な例がかつてのブタインフルエンザ騒ぎである。あの流行時、世界の各国ではそれぞれ何千人何万人ずつの死者が出たが、日本では死者数が100人程度で済み、世界最低であった。それはとりもなおさず皆保険制度によるイージーアクセスと、安価な医療費によって全ての国民に医療がいき渡っている証拠なのである。然るに日本の医療費全体のGDPに対する割合は、先進諸国の中では最低の水準であることを忘れてはならない。それというのは取りも直さず、日本の医者達が世界のどこにもないような安い賃金で、日々国民に医療奉仕をしているからである事を、ジャーナリズムも含めて自覚・確認せねばなるまい。もし医療に於いてオリンピックがあるならば、日本は間違いなく毎年(4年毎)ダントツの金メダル獲得である。しかも日本の家庭医は従来何科の病気にでも対応し、窓口で患者にお薬を渡してきた。それがどれだけ病人の時間と労力を省き助けてきたことか。熱が高くて一歩でも歩きたくない病人に、「あっち行けこっち行け、また余計な金払って来い」はもっての他である。怒ってしまうか諦めて帰ってしまっても当然である。然るに最近医薬分業・専門医導入などという、西欧かぶれの煩わしい制度を粋がって吹聴する役人と、きれいごとを並べた権利獲得目的の何やら学会のせいで、日本の最高の医療が壊されようとしている現状は由々しき問題である。何でも外国の真似をしていたら良いという問題ではないのである。

11 腰の低い日本:日本のお辞儀の習慣は最高の作法である。自らの最も大事なコウベを、目線を下げて相手に対して差し出すという挨拶の仕方は、相手より自分を一段下に置いて、相手に敬意を表する方法としてこれ以上の方法はないであろう。しかもそれは謝罪の場合にも使える。一方握手などという方法は、決して相手に対しての警戒心を解いていない。あくまでも対等なのである。キスも同じであくまでも対等である。しかもいずれも不衛生である。西欧においてペストや結核などの伝染病を、どれだけこのキスと握手が媒介したか測り知れないのである。しかも我々日本人はすぐに「すいません(申し訳ない)」と謝る習慣がある。外国では「エクスキュウズミー(あら失礼)」くらいで、まず「アイムソリー(こっちが悪かった)」とは言わない。この習慣は戦後処理にも現れている。16世紀に始まった西欧列国の植民地政策は世界中でどれだけの残酷・悲劇を生んできたことか。しかも20世紀に至るまで延々と。20世紀になって文明開化でやっと目覚めた日本が、遅ればせながらおっとり刀で同じ事をしようとしたら、見事に叩きつぶされただけに過ぎないにも拘らず、いかにも世界で日本だけが悪い事をしてきたかのように非難を浴び、それに対して事あるごとに、「遺憾」とか「申し訳ない・・・」をいつまでも言い続けられるのは、我々が戦争に負けたからでもあろうが、基本は日本人のお辞儀の精神からくるものだと思われる。インカ帝国を滅ぼして金銀財宝をすべて持ち去り、挙句の果てに利用価値のなくなったアタワルパ王を絞め殺して中南米を植民地化したスペインが、ガンジー率いるインドをなかなか搾取の手から開放せず、アヘンで中国人を骨抜きにした挙句それをネタに香港を取ってしまったイギリスが、東南アジアの香辛料で莫大な富を得たオランダが、アフリカの多くの地域を支配したフランスが、宣教師を派遣しては言葉巧みに未開世界を蹂躙してきたポルトガルなどが、4世紀余りに渡る略奪と搾取の歴史に対し謝罪の一言でも発したであろうか? アメリカにしても黒人奴隷を動物のようにつかまえ、拉致してきたアフリカの国々に対して補償をしたであろうか? それに対してわが国日本はちょっと遅れて同じことをしようとしただけにも拘らず、すぐに潰されたおかげで謝り続けているのである。
しかし血を見るのが大好きな人間や、ずるく儲けた人間が我々日本人の中にもいた事は間違いない事実であって、彼らが犯してきた蛮行を繰り返さない為にも、我々日本人は他国にないような反省の工夫をしなくてはならない。それは口先だけの首相談話などではなく、我々の失敗談を真摯に認め、我々の次の世代にしっかりと伝えていく事である。それはとりもなおさず、毎年教科書に南京大虐殺・731部隊などと言った我々の侵略の歴史と汚点を堂々と記述し、二度とこのような愚かな事を繰り返さないように、若い世代に言い聞かせて行く事である。と同時に戦争が終わっているのも拘らずカラフトを奪われたり、スターリンの指示のもとシベリアなどに黒人奴隷のように30万人もの日本人が連れて行かれ、強制労働の結果その多くが死んだ事、明らかに国際条約違反である原爆を人体実験のように広島・長崎に落とされた事実も若い世代に伝え、人類は普遍的に残酷な一面があるという恐ろしさを若い子供達に教え、自覚させると言う教育が必要なのである。

12 温厚で潔い日本人:日本人は生来争い・戦いを好まない。それはいろんなところに現れている。例えば終身雇用と年功序列がそれである。その習慣は最近ではバカにされている傾向があるが、日本の国内だけならそれが永年の平和と安定をもたらしてきたのではないだろうか。外国と争わないのなら、競争をしないのなら無理にこれ以上アクセクしなくても良いのではないだろうか。また女性が基本的に家にいて、子供達を心身ともに健やかに育て上げていくという日本の古来の姿も大事なことであるし、大いに評価されるべき事ではないだろうか。(もっと工夫が必要) 男女同権と男女役割分担というのはともに必要なことではないだろうか。女性の持つ母性は我々男性には悔しくても、どんなにしても及ばないのである。嫁さんが反対しても無理やり私が引き取って命を助け一生懸命世話をしたワンチャンが、結局家内のほうを向いている事実に気がついた時、やはり女性には敵わないなと白幡をあげたのである。結局子供にずっとよりそうのは女性が適しているのである。どんなにしても我々男には子供を産む事は出来ないのであるからだ。男と女がいつも同じことをせよというのは、人間の動物としての特性を無視した意見なのだ。女が化粧を止められないのと同じように、男がゴリゴリでヒゲもじやらの脚を出してミニスカートをはく姿など想像もしたくない。男と女の特性をふまえた上での日本の従来の家庭のあり方は、安定した、競争の少ない平和な日本の終身雇用制度と併せて、日本人の温厚さを保ってきたのである。
日本の武道も穏やかで礼儀正しい日本人を表している。日本の武道は礼に始まり礼に終わる。試合が終わっても相手の陣地に挨拶に行き、お礼を言って帰ってくる競技など他国にはないのである。黙想をし、身を清めまさに色即是空・空即是色なのである。
その潔さの中で一つだけ合点のいかない問題がある。それは昭和天皇の戦争責任である。JR福知山線の事故では歴代社長の責任があれほど問われているのに、どうして当時の天皇およびその子孫に責任が問われないのか不思議でしかたがない。切腹の精神の日本の潔さの中でどうして先の天皇がのうのうと生きていたのか、不思議でならない。ヒトラーの方が日本人的だったのか? 終戦の時点でマッカーサーが天皇を死刑にしなかったのは、彼の失策だったのか、それとも愚かな日本人をまとめておくのにずる賢く利用しただけなのか? 先ほどの平成天皇のパラオ諸島慰霊訪問にしても、世間が騒ぐほど立派なものではないと思うのである。天皇が軍服一枚とスコップ一本、そしてペットボトル1~2本の水だけ持って、お付なしでペリリュウ島に上陸し、自分で地面に穴を掘って2~3日でも何も食べずサバイバルを自主的にしてきたのなら、餓死していった多くの犠牲者たちの苦労の何百分の一、何千分の一、何万分の一でも汲もうとしたのだなと思えるであろうが、綺麗に仕立てた巡洋艦の上で旨い食事に恵まれてプカプカ浮いて安眠してきたのでは、どんな綺麗事を言ってこようが、しらじらしいと思うのである。棒読みの原稿を読み間違い、「先の熾烈(しきれつ)な戦闘」などと読んでいたのは、黒子がそのまま見えてしまって思わず失笑してしまった。また、たったひとりの発言者もそう言った発言をしなかった事、ジャーナリズムが競ってあの訪問を美化し、飾り立てて報道した事が不思議であるし、怖ささえ感じるのである。これも日本人の温厚さの故か?

13 宗教の制約のない日本:日本ほど無宗教が許される国は他にないのではないだろうか。結婚する時は教会で式を挙げ、子供が生まれたら神社にお参りし、死んだら坊さんに拝んでもらって仏さんになる。変幻自在である。しかもその間殆ど制約がない。日曜の朝は自由だし、断食の期間もない。寄付をする必要もないし、酒も飲める。それでもって特にバチもあたらない。しかし何となく仏教の捨身飼虎の功徳精神が頭を支配している。右の頬を打たれたら左の頬どころか、全身を徹底的に完膚なきまで攻撃するというような事は決してしない。他人を蹴飛ばしてまで競争に勝とう等とは決してしない。
そして日本では宗教間の争いが全くない。我々が困った時の口癖として「神様・仏様」とよく言うが、考えてみれば奇妙なのである。神仏同居している。実際同じ敷地に両方が祭られているところさえある。結婚式も神前でも仏前でも教会でも何でも良いのである。どこも取り合い争いなど全くしないのである。宗教戦争はおろか、取り合い・縄張り争いなども全くないのである。それでもって政教分離はしっかりしている。外国では大統領の演説のあとによく「アーメン」を聞くが、日本で首相が「ナンマンダブ」でも言えばおおごとである。自由そのものである。多神教なのか?

14 教育:日本は明治以来義務教育を徹底させて、いち早く識字率を世界最高に持っていった。その結果国民のインテリジャンスは非常に高いものとなった。それにより我々は理路整然と物事を考え、的確に判断出来るようになった(筈である)。それにより我々の生活レベルは飛躍的に向上してきた。ただ英語教育は失敗の連続でいまだにその失敗を続けようとしている。言葉というものは苦痛の中でしゃべれるようになるものではない。しゃべらないと死ぬという状況ならいざしらず、しゃべらなくても食っていけるのなら、怒られながら誰がしゃべろうなどとしようか。少しでも間違っていたらすぐペケをつけて文句をつけたがる今の教え方なら、義務教育3年の英語授業を6年にしようが、8年にしようがたとえ10年にしようが、決して日本人は英語に口をわらない。ペケをつけるのではなく、ちょっとでもしゃべったらすかさずマルを与え、褒めて大騒ぎする事だ。試験などいらない。共通の教材などいらない。教師がその場・その日の話題を持ち出してくる事だ。そして高度なテクニックと英語力を要する教師の評価、例えばTOEIC・英検、父母を交えての人気投票などの成績を、教え子の参考成績として付記しておく。そうすることによって英語は音楽・絵画と同じように子供達に受け入れられ易くなるのである。英語を通して世界を見るのは楽しい。そう子供達に思ってもらえるように、そして日本が世界と仲良く交わって行ける様に教育関係者はもう一工夫すべきである。

15 美しい風土:日本の四季の移り変わりは素晴らしい。多少つらいこともあるが、それがまた「苦あれば楽あり」である。いま家の玄関ではツツジが満開で、庭では鯉のぼりが悠々と泳いでいる。四季折々の食材が楽しめ、しかも流通の発達によって遠くのものでも新鮮なままで手にはいる。食べ物は比較的に安いし例外を除いて餓死することはない。社会保障は行き届き過ぎて、ずるく保障費を受ける事だって出来るほどである。戦後いたコジキなど今時目にもしない。ホームレスだって主義をもってしている事が多い。以前夏の暑い日にホームレスの人に声をかけて、「施設があるから涼しい施設に連れてってあげましょうか?」と言ったら、「あんな堅苦しいとこなんか行きたくない。ほっといてくれ」と追い返された。生きようとしたらどうしてでも食って行ける世の中のようである。冬の受験戦争は辛いが、春の桜入学はこの上なく楽しい。9月入学など外国のマネをして実施することなどない。我々は日本を愛し、大事にし、楽しく仲良く生きていけば良いのである。

おわり


前略 お元気そうでなりよりです。

当方は2月に捨てられっこのリッキーが、9月には甘える為だけに生まれてきたミルキーが去っていき、天涯孤独になってしまいました。おまけに毎日のように「育じい」をしていた長女の2人息子が一家でドイツに引っ越してしまい、クリニックと道場以外することがありません。

さて今年の世相を代表する漢字は「税」だそうです。ピンとこないと言うか、全然あたってないと言うか。むしろ今年も昨年と同じく「偽」が適当だったのではないでしょうか。サムラゴウチを筆頭に、我が地元の号泣議員、ひいては結局「STAP」細胞は存在しませんでした。

海外に目を向けるとアメリカの化けの皮はぎ。黒人をトドメを刺すまで撃ち殺そうが、寄ってたかって刺青腕で絞め殺そうが、まるで犬猫を始末した時の如く起訴もされず裁判にすらならないなど、話にならないとはこの事であろう。一件目のファーガソンの場合は確かに「死人に口なし」でどこにも証拠はない。しかし日本なら警官が一発発砲しただけで新聞沙汰である。それが10発以上など殺意、あるいは憎しみ以外なにものでもない。二件目のニューヨークでは映像と音声まで残っているにも拘らず数の力でお蔵入りなど、正義も糞もない。これが世界の中心都市たるニューヨークで起きた事なのだ。所詮ノアの方舟にはイヌやネコなど動物は乗せてもらっていても、われわれ黄色人も黒人も乗せてもらえなかったのだ。我々は動物以下なのか。これでは自称世界の警察官なるアメリカは中国や北朝鮮の人権問題に口を差し挟むことなど到底できないであろう。それどころか「イスラム国」なるテロ集団にすら偉そうに出来ない筈である。

年末になってやっと少しだけ明るいニュースが飛び込んできた。そして皆が浮かれている中で中村教授の「ただの金属ですよ」がなんとすがすがしかったが。所詮ノーベル賞など世界に最大の不幸をもたらしたダイナマイトからきたものだからだ。

今年最後の「偽」のトドメは「自民圧勝」の選挙であった。過去最低の得票数しか取れなかった自民党が「圧勝」したのだ。みんな今の政治を見放しているだけだというのに。GDPの伸びはどうもがいても1%なのに、不動産・金融資産の利益率は5%という事は、我々アリンコ族がパン牛乳を買う金の伸びが年間1の間に、株・土地持ちキリギリス貴族は年間伸び5のマネーゲームをしているという訳だ。フランス革命以前と何ら変わりはない。これでは若者のやる気はうせていて当たり前だ。日米ともに「頑張れば将来成功できる」という神話を信じている者の率が40%くらいというのも納得のいく話である。大本営発表たるアベノミクスなど小手先の金融政策だ。所詮明るい将来はない。今必要なのはアリンコ族にやる気を起こさせる思想改革なのだ。キリギリスを叩き出す事だ。

こういう中で我々武道家は流行に流されず、と言って周りをしっかりと観察しながら、こつこつと中村教授のように前に進むことが必要であろう。

また会おう。

2014年12月17日 八杉 誠

草々


あなたはワンチャンとどう接しますか?

「自分はずっと以前から多くのワンチャンと暮らしてきた。」

この一行に既に私のワンチャンに対する気持ちがふんだんに盛り込まれている。

まず自分はワンチャンのことを決して「イヌ」とは言わない。イヌという言葉は差別的であり、いかにもワンを見下しているのである。また「飼っている」とも言わない。なぜなら「飼う」というのは、こちらがワンにエサを与えているだけという、一方的な上下関係を意味するからである。とんでもない、こちらはワンチャン達からどれだけの愛を受け取ったであろうか。どんな人間からも受け取れなかった、真に純粋な無償の愛をどれだけ受け取ってきたであろうか。朝夕あげる「ごはん」の何倍何十倍何百倍何千万倍のお返しをいただいてきたのである。それを「飼う」などと誰が言えようか。むしろこちらが多くのものを受け取りながら「一緒に暮らして」きたのである。

現在たった一人(一匹などという差別語は我が家では禁句。人権を認めて一人、二人と呼ぶ)になったミルキーはいまや8歳の老セイントバーナードで、そろそろ足元がおぼつかなくなり、「お座り、待て」も彼女にとっては難儀なので、容器に入れたご飯はすぐ「よし食べて食べて」と言ってしまう次第である。

ところが先日ある患者さんと雑談をしていた時である。その患者さんは私のワンの扱いは間違っていると言い出したのである。その人によると「犬は犬、人間は人間」だというのである。必ずイヌの上に飼い主を置かなくてはいけないと言うのである。確かに物理的に言うとそうかも知れない。しかし自分はなぜか何に対してでもそのような支配的な態度を取れないのである。「犬」に対してそのような考え方の出来る人は他人に対しても同じように支配的になるのではないかと危倶するのである。

自分は他人から支配されるのも指図されるのも大嫌いなのである。従って自分も他人を支配しないし指図もしないのである。また身動きが出来なくなるような集団に入るのも大嫌いである。根っからの自由人なのである。これは私の大学時代のある恩師の「男子たるもの徒党を組むな」という教えでもある。

私のそのような心理状態は職場においてでもそうである。私は職員に対して決して支配的な態度を取れないのである。それは私の医学的知識が彼女達より劣っているからではない。私の医学的知識の豊富さと経験の多さ、決断力の早さ真面目さは彼女たちは日常診療を通じて充分知り尽くしてくれているのである。しかし自分が一番偉いと自負する人は、もうそれ以上成長出来ないと私は思うのである。彼女達からでも何か学びたい、何かを得たいと常に思っているのである。実際自分が偉そうにしてしまっていると、何かを聞きたい時でも簡単に「教えて」と言いにくいではないか。「たわわに実った麦は穂を垂れる」のである。

また自分が指導している空手道場においてでもそうである。弟子達に対して自分は決して支配的な態度は取らない。指導しながらでも何か彼らから得るものがないか、常に探し続けているのである。自分が一番強い、一番うまいと考えてしまっては、もうそれ以上強くもうまくもなれない。またいつでも自分が上にいないといけないと考える人間は常に他人との間に不安を抱き、テンションとストレスの中からいさかいを生み出してしまうのである。

何にせよ自分はうちの子達に怒った事も、まして叩いたりした事等全くない。どんなにしても自分より早く死んでしまうであろうあの子たちに、どうしてきつく当たれようか。毎日家に帰ると誰よりもまっさきに走ってきては、オシッコをたらさんばかりにキュウキュウキュンキュンと言って喜んでなめ回してくれる我が子は、ある意味実の子達より大事にしてやらなくてはならないのである。人間の子なら虐待や捨て子をしても、社会が必ず救済の手を差し伸べるが、ワン達は自分が守ってやらなくては誰も守ってやってくれないのである。親不幸と言われるかも知れないが、親の命日はうろ覚えだが、3人のワン子達の命日はきっちり暗記している。親にはおよそ線香を揚げたりはしないが、ワン子達の仏壇には毎日4回ずつ線香を揚げ、水も毎日欠かさず換えてその都度亡きあの子達に話しかけているのである。親を無条件に信じ、無条件に従い、無条件に愛する事の為だけに生まれてきてくれたこの子達の為なら、何でもしてやらないと思うのは当然なのではないだろうか。妻や実の子でも一度や二度ならず、私を疑い、または逆らってきたのである。

全ての人がワンに対するような優しい心を持ち、互いに対する無欲な奉仕精神を持ってくれるなら、この世は平和で真の豊かさを味わえると思うのであります。出来れば墓はワンたちと一緒に入りたいのですが、どなたか良い方法を教えていただけませんでしょうか。


ミニトマトと巨峰に要注意…こんにゃくゼリーだけではありません

昨日私は7人の孫のうち6人目の、1歳半の男の子を亡くしそうな目に遭いました。

夕方私がいつもの金麦を飲みながら、その孫のおもりをしていた時でした。孫はタッパーに一杯入ったミニトマトを時々口にほおばりに来ては、一人で機嫌よくその辺で遊んでおりました。

ところがある時突然泣き出して、私の方へ走って来ました。見ますと既にヒュウヒュウと苦しそうな息をしているではありませんか。

瞬間でトマト詰まりと判断した私は慌てて孫の口の中に指を突っ込んで出そうとしましたが、出てくるどころか、指で押されたトマトはどんどん奥へ入って行きます。しかも孫が泣く度に胸の空気は外へ出て行ってしまい、息を吸い込もうとするとトマトがまるで弁のように塞がってしまい、全然息が吸い込めなくなってしまいました。胸の中にはもう泣くだけの空気さえ残っていません。見る見る内に顔色が変わって行き、しまいにはとうとうチアノーゼで紫になってしまい、声も出ず息も全くしていません。

素人の人ならそこで119番するのでしょうが、救急隊が到着したころには完全に息を引き取ってしまっています。そこで私は咄嗟に孫を逆さに抱き上げ背中を強く叩きました。しかしトマトは出て来ません。ついに私は孫の胸の骨を折るつもりで力いっぱい胸部を瞬間的に締め上げました。すると吐物と一緒にトマトがポンと出てきました。

一命を取り留めた孫はしばらく指をくわえて、シュンとしていましたが、ママが帰宅したころにはもうニコニコとしておりました。

トマトとか大きい葡萄などは、皮が硬く少々の力では破れたり変形してくれません。ある意味マンナンゼリーより危険です。明日からは子供にそれらを与えるときは包丁で半分に切ってあげようと切に思いました。皆さん是非この救急小児科医の体験を覚えておいて下さい。また周囲のお母さん方にも周知してあげて下さい。

私の孫は幸いにも医者の育爺を持っていた為、あの世に行かなくて済んだという体験談でした。


法はすべからく守るべし? あるうら若い警官とのやり取りから

先日の午後のことであった。出かけ先からクリニックに向かって自転車で走っていた。

突然後ろから「もしもし」と声をかけられた。振り向くとそこにはいつの間に尾行されていたのかやはり自転車に乗った若い警官が立っていた。

「何ですか」と言う私の問いに「鍵は付いてますか?」と警官尋問

八杉(Y)「付いてます」。その警官(K)前に回って「前鍵ですか?」と納得。

それで終われば良いのに更に(K)「防犯登録してありますか?」。むかっときたが(Y)「ほらここです」

それを見て(K)「この自転車どうされたんですか?」。(Y)もらったと嘘を言えば良いのに正直に説明を始める。

「実は私は3つのビルのオーナーなんです。借家人が退去する時に動かない洗濯機、冷えない冷蔵庫、衛星放送の映らないテレビ、ダンボールに入ったがらくたなどいっぱい置いたままよく姿を消すんです。これもその一つで、直しながら私が乗っているんです。」するとその警官いかにも上から目線で
「それ困るんですわ」 八杉むかっとして「どう困るんですか」

(K)「持ち主に返してもらわんと」 (Y)「住所も電話も分らんのに返せませんよ。返せと言われてもこっちが困ります。おたくが防犯登録から持ち主を探して下さいよ」

(K)「それは私の仕事と違います。」 (Y)「じゃあどうせーと言うんですか?」

(K)「とにかく乗ってってもらったら困ります。」(Y)怒って「じゃあこの自転車ここに置いていくわ」

(K)「それも困ります。不法投棄です。」(Y)怒鳴り声で「じゃあどうせーと言うんや。困るのはこっちの方や」

(K)「とにかく法律は守ってもらわんと」(Y)開き直って「大体法律は何の為にあるんや?法律は他人の物を盗ったり、他人を傷つけたり、殺したりしない為にあるんと違うんか。世の中に平和と幸せをもたらずべき、法の根本精神と目的を忘れんときや。誰にも迷惑かけていない自分のようなもんが何であんたのようなもんに文句をつけられなあかんねん?それとも法律はあんたのような石頭の意地悪役人が、形だけ守らせようとして一般人をいじめ、迷惑をかけたり不幸に陥れる為にあるんか?それがあんたらの仕事なんか?」

(K)「それでも守ってもらわんといかんのですわ」(Y)遂に切れて「大体法律を忠実に守ってばかりおったらあんたらのような若いもんはおろか、今いる日本人は存在してなかったんを分かってるか?あんたら青二才は知らんやろうが、戦後の食糧難の時に食管法(食糧管理法1995年やっと廃止)が定められて、日本人は政府配給米しか食べたらあかんかったんやで。しかしその量があまりにも少ない為に警官も含めみんな闇米いう脱法米を食べててそれが当たり前やったんやで。皆それを手に入れんと誰も生きていかれへんかったんや。実際忠実に法律を守って配給米だけで暮らしていて、栄養失調で死んでもた有名な裁判官もいるけどな。日本人は長い間法律を犯して闇米を食べてたらか生き延びられたわけで、法律を犯してなかったらあんたのオカン・オトウも死んでたか、少なくともあんたは今存在してなかったんやで。それと現在でもパトカーは制限速度をきっちり守ってるか?ついて走ってみ。制限40キロのとこ60、60のとこ80でパトライトもつけず、サイレンも鳴らさず走ってるの何ぼでもあるで。こっちが取り締まれる立場やったらなんぼでも捕まえてやれるで。法律いうのは原則であってそれを上手に運用するんが賢い人間のすべき事ちゃうか。頭ごなしに法律ばかり持ち出して一般人を困らせるのは、法律によって縛られなあかんような、つまらーーーん無能人、悪人と変わらんのとちゃうか?」

「・・・・」若い警官無言。

(Y)「自分はクリニックしてるけど、こんなとこであんたらと口論してたら、通り過ぎる患者さんが、八杉は何悪い事したんやと思いはるから、すぐそこの医院まで来て」

八杉そのまま自転車に乗りその場を去るも、警官追跡して来ず。

所詮法律なんて「憲法違反」で選ばれた議員達が決めたもの。あるいは○○知事のように5000万円もらっても人前で堂々と見え透いた嘘をつき、世の中をバカにしているようなお偉方の決めた事。アナーキストではないが「うぬがごとき者にとやかく言われたく無いわい。こっちはちゃんと考えた上で良識をもって行動するわい。」と言いたい。無思考・無批判・無抵抗・無感情・無慈悲が良いのでしょうか?こんな事をつぶやいている人間は、どこかの国のように徐々に粛清されてしまうのでしょうか。