月別アーカイブ: 2010年2月

アンリ・デュナンとオリンピック

 先日宝塚に赤十字の産みの親アンリ・デュナンの物語「ソルフェリーノの夜明け」を見に行って来た。一方家に帰ってみるとテレビでオリンピックをしていた。この二つの事は一見全く関係がないように思われるが、私はその二つに大きな共通の理念がある事に気付いた。

 赤十字の理念は敵味方なく人を助け、人類の幸福と世界の平和を願う事である。またオリンピックの理念も敵味方なく技を競い、戦争を回避し人類の幸福と世界の平和を祈願する事である。ところが今回の国母選手の騒動はこの根本精神を全く忘れてしまった発想から来ていると思われる。

 確かに国母選手の服装と態度は褒めたものではないし、私自身どちらかと言うと好きではない。しかし問題は彼が誰も殺してはいないし、誰の物も取っていないし、誰をも傷つけていないし、攻撃すらしていない「危険ない」存在にも拘らず、彼がひたすらしてきた努力を外力が潰そうとした事なのである。無害な人間の行く手を遮り、将来を閉ざすような事を何故他人がしなければならないのか全く理解できないのである。出場停止どころか召還などもっての他なのである。攻撃性の全くない人間に対して、自分と異質な存在だというだけで何故そのような攻撃をしないといけないのか全くおかしいのである。そのようなところに諍いと争いが生まれていくのである。戦争回避を目的としているオリンピックで争いを作り出してどうすると言うのだ。オリンピックは異なった国・人種・習慣・服装の人間が集まり、お互いが認め合い許し合い、歩み寄り平和を追い求めるのが目的なのではないか。処罰を求める人は形ばかりを考え精神を忘れているのである。

 世界は大きく変わっている。世界の首脳同士すらノーネクタイで会談するご時世である。進んだ国では小学生でも化粧を自由にするとか言う。バンクーバーの大通りのオブジェは、丸めた紙くずを人の背丈もある金属で形作って堂々と置かれているのである。今時何が正しくて、何が間違っているのか誰も偉そうに言えないのである。害がなければ何でもそっとしておいてやるという広い心が必要なのではないか。処分はまるで国民総動員を発令し国防服を皆に着せようとしているような発想のようだと思うのは考え過ぎであろうか。出場辞退を申し出たスノボ協会のお偉方は、アバクロやホリスターを知っているのであろうか。

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(2010年2月20日 院長 八杉 誠)


武道人の品格

2月6日の午後10時よりNHKで朝青龍の引退について、やくみつる氏・元横綱北乃富士・NHK司会者が対談をしていた。

 しかしその内容は的はずれであり、かつお粗末なものであった。

 まず朝青龍を引退に追い込んだ理由は横綱の品格に欠けたからだと言う事で意見が一致し、後の議論の前提となっていたが、それは大きな間違いである。引退しないといけなかった大きな理由は2つある。その一つは仮病を装って偽診断書を相撲協会に提出した職場放棄である。2つ目は明らかな傷害事件を起こしたという事実である。それは事件化していようが、示談により事件化していなかろうが明らかな犯罪であり、そのような前科者に神聖なる国技をさせてはならないのである。ましてや武道家の手は「神の手」であるべきものであり、それをもって一般人を傷つけるなど持っての他なのである。そこを誰も指摘しなかったのは全くもって的はずれとしか言いようがなかったのである。

 そのような拍子抜けの進行の中で次なる議論は「品格」についてのやりとりであった。司会者が「品格」の定義を出席者に求めたところ、3人の回答者はこぞって「見えない・はかれない・答えようがない」と答えていたのである。何の為のゲストだったのであろう。その程度なら誰でも発言できるのである。出演料を払う必要などないのではないか。

 「品格」は和英辞書には載っていない。「品」はeleganceと訳されている。しかし品格とはそんな軽いものではない。では「格」は何なのだろうか。自分はそれをdignity 即ち「威厳」と解釈する。

 勝負には必ず勝者と敗者がいる。即ち自分が勝者なら、相手は敗者。自分の存在は敗者の存在があっての上なのである。言ってみれば自分が今あるのは敗者のお蔭なのである。ある意味敗者に感謝の念を持つべきなのである。朝青龍について言ってみれば、その感謝の念は取り組み相手のみならず、そこ迄育ててくれた親方・部屋・相撲協会・多くのファン・日本の社会に対して持ち、そしてその長い歴史に深い感謝と畏敬の念を抱くべきなのである。大きな歴史の歯車の中では、たった一人の人間の存在など無に等しい事を謙虚に痛感すべきなのである。そして次に敗者の体と心の痛みに思いやりを馳せるのが必要なのである。更に自らの技と行動が世の光になるよう奉仕の心がなければならない。その「感謝・思いやり・奉仕精神」が揃ってこそ品格というものではないだろうか。自分が勝ったら「自分が一番偉い、自分より偉いものはない」等と考えてしまうと、その人はもうそれ以上進歩はしないのである。

 東洋の考え方ではもともと森羅万象全ての存在は同一平等なのである。その中で仏様に「お前は人間・お前は空・お前は山・お前は川」などと振り分けられただけなのである。従って人間社会もたまたま総理大臣役に当たったり、ホームレス役にならされたりしているだけの事なのである。従って「自分一人で偉くなった・世の中自分一人」などという考え方は東洋思想ひいては日本の国技とは相容れないのである。与えられた役柄をただ従容として受け入れ、かつその演技を最高に美しく演じないといけないのである。

 正直と謙譲の美徳を発揮してこその「品格」なのである。但し日本の中心にある政界自身が嘘と金銭で汚れきっているのでは、世も末としか言いようがないのであるが。

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(2010年2月10日 院長 八杉 誠)