こよなく日本を愛する 世界に例を見ない日本の魅力15

自分は日本に生まれ育ち、66年間日本に住んできて幸運だったなよかったなと、最近つくづく思うようになった。それは天皇を崇拝したり、旗を振ったりするようなドグマチックなものではなく、純粋にナチュラルなペイトリオットとしてそう思うのである。今までいろんな国を旅してみたり、いろんな情報を見聞きしてみてもやはり結局は日本ほど良い国は他になく、この経験に基づく事実を外国の人たちにも是非紹介したいとさえ思うのである。

1 安全で平和な日本:日本の新聞などで扱われている殺人事件や発砲事件は、我々日本人にとっては目を奪われるような事件であるが、それらは外国においては日常茶飯事すぎて一々記事にすらならないようなものである。それは明治維新において刀狩りをした事によって、基本的にわが国内には武器が横行していないからである。ライフル協会や質の悪い警官も存在せず、基本的に治安を信頼できるからである。日本では背を向けて逃げる市民に向かって警官が8発も銃を撃つどころか、襲い掛かってくる暴漢の足に向けて一発威嚇発射しただけでも、その是非を問うような記事が報道される位である。又先の戦争の経験から、戦後70年間不戦を誓い続けて、一発も他国に対し発砲した事のないのも自慢できる実績である。
又日本は訴訟の少ない国である。アメリカでは「ベイビーキッサ-」= 赤ちゃんを見つけるとやたらキスをしに行って票を稼ごうとする政治屋、「アンビュランスシーカー」= 救急車を追いかけては裁判をけしかける悪徳弁護士、と言う俗称があるように、何かあれば裁判にして金儲けをしようとする一般人と裁判官が横行しているが、日本ではおよそ言われのない言いがかりで訴えられることはない。泥棒に入ろうとしたら屋根が抜けて落ち骨を折った犯人が、家の持ち主に「人が乗ったら破れるような屋根を作るな」と家の持ち主を訴えたと言う話は有名であるが、日本ではそのような馬鹿げた事はおよそない。安心して暮らせる世の中なのである。

2 正直な日本人:日本でお金を落としても、それが持ち主に帰るパーセンテイジは実に90パーセントである。イタリアなどでは、お金がもどるどころか、一番神聖なる祭壇の前が一番危険だと現地ガイドから注意を受けた。スリは神から与えられたいただき物だとか。自分の兄はロシア旅行をした時、夫婦で朝の散歩中3人の警官にパトカーに押し込まれパスポートを取り上げられ、約3万円と交換に開放とパスポート返還を受けた。付き添いガイドに申し出ても「そんな事はここではよくある事なので知りません」だとか。自分もデンマークのチボリ公園入り口で写真撮影中に、隣に擦り寄ってきたアベックに肩掛けカバンを開けられていた。同じツアーの人が教えてくれて間一髪で難を逃れたが、落ちた金を返すどころか、生き馬の目を抜くような事が外国では当たり前なのである。アメリカでは金を拾っても決して警察に届けない。日本のような交番がないせいでもあろうが、苦労して本署に持って行っても犯人扱いされ、「どこで手に入れたのか」と根掘り葉掘り数時間の尋問を受けるのが落ちなのである。

3 親切な日本人:日本のレストランは最高である。まずどんなチンケな食堂でも、店先に本物そっくりのサンプルが置いてあるか、少なくとも写真入りのメニューがそなえてある。外国ではサンプルはおろか、写真すらない。良いとこ日本語のメニューがあったとしても、それがまたフランス語のカタカナばかり書いてあって、自分のような無骨者にはさっぱり理解出来ない。食事を注文している段階で目まいと吐き気を催すのである。やっと注文が出来たとしても水はまず自動的には出てこないし、頼もうとしても担当の店員しか絶対に対応してくれない。始めにしっかりと自分を担当する店員の顔を覚えておかないと、その御仁以外どんなに声をかけても返事をしてくれない。ツンとして横向いてしまわれるか、良いとここっちを向いてくれても、シラーとされるか、ニヤーとして通り過ぎられるかである。チップをくれる客以外には絶対にサービスしてくれない。非常に割り切っていてクールなのである。それに比べ日本の食べどころでは、どの店員でも大抵は愛想良く返事をしてくれる。店全体で接客してくれるのである。まさに日本特有のオモテナシの精神である。
また電車やバスに乗った時につくづく思うことが2つある。まず時間が正確である事。自分の大好きなハワイイでは「No, I’m not late. I’m on Hawaiian time.」という言い方がある。「いや遅れたんじゃないさ、ハワイイアンタイムで来たのさ。」 日本ではおよそ時刻表を信用して良いのである。またそのアナウンスの優しい事。出発のアナウンスに始まり、行き先・次の停車駅・時には到着時間のお知らせ、落し物に御注意迄言ってくれる。ところが外国ではおよそそのようなサービスはない。自分でしっかり自覚して意識して勝手に降りるか、しっかり周りの景色を見ておかないとならない。オモテナシそのものである。

4 多彩な日本食:食べると言えば日本人ほど多彩な雑食人種はいないのではないだろうか。高級なフランス料理をはじめ、肉料理・魚料理・煮物・焼き物・揚げ物、そして生もの・ゲテモノ。特にこの生ものは世界に例を見ないであろう。魚類はいうまでもなく生肉さえも安心して食べられる。肝を生で食べられる国など、世界中どこにもないであろう。それというのも日本は清潔な国だからである。決して我々が野蛮なのではない。法律も整備されているし、第一作る側も良心的に責任感を持って衛生を考えている。ちょっとした異物が入っているだけでも大騒ぎである。またダシや醗酵食品など、外国の人には分らないような微妙な味付けがある。日本人は繊細な舌の持ち主なのである。また食器が美しい。純粋な日本料理は食器を楽しむとも言われている。

5 箸の歴史:微妙で繊細な日本食の味付けに合わせ、我々日本人は巧緻運動の名手である。箸という道具は我々を非常に器用にしてくれている。たった2本の単純な道具で、あらゆる動作を可能にする。挟む・切る・混ぜる・突き刺す、そして口まで持っていく。歯の間に挟まった物まで取ってみたり、歯糞まで擦って取ることすら出来るのである。ナイフやフォークといった武器まがいの食器よりよっぽど安全で、多彩な使い方が出来るのである。自分は外国旅行をする時でも必ず竹箸を持って行く。スパゲッティーでも持参の箸で食べるし、ケーキでも箸で食べる。しかもこの清潔な道具を我々日本人は遥か昔の奈良時代から使用しているのである。ナイフやフォークといった西洋のカテラリーは、フランス革命あたりの、18世紀頃に始めて使用が始まったのである。実にその差約1,000年の開きがあるのである。それまで彼らは手づかみで食べていたのである。この箸の巧緻運動の歴史がどれだけ我々日本人の脳を活性化・刺激し、且つ清潔観念を持たせてきたか、はかりしれないのである。

6 豊富で安全な水:日本では店に食べに入ったら、まず当たり前のようにコップ一杯の水またはお茶が自動的に出てくる。これは我々にとっては当たり前の事であるが、外国においてはまず「イラッシャイマセ」と水と言うサービスはないと考えて良い。頼んだらやっと持ってきてもらえるが、それは有料の事が多い。フランスなどではワインより水の値段の方が高いのである。しかも水道の蛇口から出る生水をそのまま安心して飲めるのは、ここ日本とハワイくらいのものである。外国は我々の慣れていない硬水の事が多いし、我々が耐性を持っていない細菌がいるため、がぶのみするとまず下痢をしてしまう。国によっては出された生野菜を食べても、洗った水が少し付いているだけで腹を壊してしまって、旅行が台無しになってしまう事すらある。日本の水道水はそのままで瓶詰めして飲料水として輸出できるほど清潔なのである。

7 清潔で快適な風呂:水の豊富な日本では大きな湯船とシャワーが別々に設置されてある。シャワーでまず粗洗いをした後、寒い冬がある為でもあろうが、ゆっくりとたっぷりのお湯につかる。そして湯船から出て石鹸で本洗いをしてシャワーでしっかりと洗い流してから、縞麗な体で又湯船につかり最後に駄目押しのシャワーをしてあがる。しかし外国の風呂では湯船のないのが基本である。しかもシャワーヘッドが頭の上に固定されている事が多い。これでは落ち着かないし、第一微妙なトコロが気に入ったように洗えていない。ホース付きのハンドシャワーがないと、大事なところが汚いままで終わってしまうのである。自分のような痔恐怖症には耐えられないのである。一方良いとこ湯船があったとしてもそれは大概シャワーと一体である。従って湯船にお湯をはってしまったら、尻や足も洗わないままダボンと湯船につかってしまわないといけない。そしてそのお湯が顔や頭にかかったら、大腸菌を舐めているようなものである。それにバスタブに石鹸を入れて泡だらけにしてゴシゴシジャブジャブするものだから、大抵は口や目に汚い泡水がかかる。よしや先にシャワーで粗洗いを済ませた後、湯船にお湯を張り始めたとしても、お湯がたまるまでに体は冷えるし、乾いてしまうし、その内眠たくなって酔いも覚めてしまうのである。なぜなら、このお湯ハリ水圧がやたらダサイことが多いのである。排水に至ってはあすの朝までかかるのかと思われるくらいトロイ事が多い。従って上がりがけに足先を洗おうと思っても、残った石鹸混じりの汚いお湯が邪魔をして、結局足の指の股はヌルヌルのまま湯上りするより他ない。かれらの足先は想像するだけで気持ちが悪い。しかも大体くっつくようにして便器が設置されてある。折角の湯上りに、ウンコやシッコが付いているかも知れない便器に脚が触れてしまい、何度気持ち悪い思いをした事か。それが5スターのホテルの常識である。日本では場末のビジネスホテルですらそんな事はまずない。

8 清潔なトイレ:ウォシュレットというのは世界に誇る日本の発明品である。最近ではトイレに入って出てくるまで、パンツを下ろすのと排泄とロールペーパーを使うこと以外何もしなくて良いトイレが多い。しかもそれがどんな陳腐な店のトイレにも大概設置されている。ちょっとした公園のトイレにしてもウォシュレットがあるか、ないにしてもおよそいやな匂いがしない。ところが外国ではウォシュレットにお目にかかる事はまずない。日本人が良く行くハワイでもDFSの特別ルーム以外置いていない。最高級ホテルにも無いし、ヨーロッパに至っては彼らはこの世にウォシュレットがあるという事実すら知らないのではなかろうか。外国ではAIDSが多いせいでもあろうが、我々日本人の清潔観念とオモテナシの精神によるところが大きいと思われる。

9 畳の文化:日本人の足は清潔である。それは靴を脱ぐ習慣によるものである。洋風生活では一日中靴を履いたままである。従って外人の足には水虫が多い。どんな綺麗な女優さんでもその足は水虫で臭いと考えて良いのである。日本では仕事中は靴を履きっぱなしではあるが、家に帰ると靴を脱いで生活する。従ってムレから開放される時間が長い。また玄関から上下・内外を区別しているので、室内は清潔である。幼い子供でも平気で手をついて這いずりまわって、その手を舐めても平気なのである。我々大人でも畳の上にゴロンとするとそれだけでホッとするのである。しかるに外国の家では靴のまま室内を移動するので、室内は路上と一緒である。他人の痰唾や動物の糞が泥土のついたまま家中に蔓延しているのである。家中黴菌だらけである。赤ん坊に至ってはそこを這いずり回るので、病気になって当たり前なのである。外国の乳児死亡率の高い原因の一つにそれがあるのではないかとさえ考えられる。

10 病気をしても安心:日本ほど医療の充実している国はない。しかもそれが非常に高度で安価なのである。日本は戦後の混乱期に否応なしに、世界に誇るべき皆保険制度を導入した。それにより被保険者は誰でも安心して高度で安価な医療を受けられるようになった。その証拠の一つとして最も顕著な例がかつてのブタインフルエンザ騒ぎである。あの流行時、世界の各国ではそれぞれ何千人何万人ずつの死者が出たが、日本では死者数が100人程度で済み、世界最低であった。それはとりもなおさず皆保険制度によるイージーアクセスと、安価な医療費によって全ての国民に医療がいき渡っている証拠なのである。然るに日本の医療費全体のGDPに対する割合は、先進諸国の中では最低の水準であることを忘れてはならない。それというのは取りも直さず、日本の医者達が世界のどこにもないような安い賃金で、日々国民に医療奉仕をしているからである事を、ジャーナリズムも含めて自覚・確認せねばなるまい。もし医療に於いてオリンピックがあるならば、日本は間違いなく毎年(4年毎)ダントツの金メダル獲得である。しかも日本の家庭医は従来何科の病気にでも対応し、窓口で患者にお薬を渡してきた。それがどれだけ病人の時間と労力を省き助けてきたことか。熱が高くて一歩でも歩きたくない病人に、「あっち行けこっち行け、また余計な金払って来い」はもっての他である。怒ってしまうか諦めて帰ってしまっても当然である。然るに最近医薬分業・専門医導入などという、西欧かぶれの煩わしい制度を粋がって吹聴する役人と、きれいごとを並べた権利獲得目的の何やら学会のせいで、日本の最高の医療が壊されようとしている現状は由々しき問題である。何でも外国の真似をしていたら良いという問題ではないのである。

11 腰の低い日本:日本のお辞儀の習慣は最高の作法である。自らの最も大事なコウベを、目線を下げて相手に対して差し出すという挨拶の仕方は、相手より自分を一段下に置いて、相手に敬意を表する方法としてこれ以上の方法はないであろう。しかもそれは謝罪の場合にも使える。一方握手などという方法は、決して相手に対しての警戒心を解いていない。あくまでも対等なのである。キスも同じであくまでも対等である。しかもいずれも不衛生である。西欧においてペストや結核などの伝染病を、どれだけこのキスと握手が媒介したか測り知れないのである。しかも我々日本人はすぐに「すいません(申し訳ない)」と謝る習慣がある。外国では「エクスキュウズミー(あら失礼)」くらいで、まず「アイムソリー(こっちが悪かった)」とは言わない。この習慣は戦後処理にも現れている。16世紀に始まった西欧列国の植民地政策は世界中でどれだけの残酷・悲劇を生んできたことか。しかも20世紀に至るまで延々と。20世紀になって文明開化でやっと目覚めた日本が、遅ればせながらおっとり刀で同じ事をしようとしたら、見事に叩きつぶされただけに過ぎないにも拘らず、いかにも世界で日本だけが悪い事をしてきたかのように非難を浴び、それに対して事あるごとに、「遺憾」とか「申し訳ない・・・」をいつまでも言い続けられるのは、我々が戦争に負けたからでもあろうが、基本は日本人のお辞儀の精神からくるものだと思われる。インカ帝国を滅ぼして金銀財宝をすべて持ち去り、挙句の果てに利用価値のなくなったアタワルパ王を絞め殺して中南米を植民地化したスペインが、ガンジー率いるインドをなかなか搾取の手から開放せず、アヘンで中国人を骨抜きにした挙句それをネタに香港を取ってしまったイギリスが、東南アジアの香辛料で莫大な富を得たオランダが、アフリカの多くの地域を支配したフランスが、宣教師を派遣しては言葉巧みに未開世界を蹂躙してきたポルトガルなどが、4世紀余りに渡る略奪と搾取の歴史に対し謝罪の一言でも発したであろうか? アメリカにしても黒人奴隷を動物のようにつかまえ、拉致してきたアフリカの国々に対して補償をしたであろうか? それに対してわが国日本はちょっと遅れて同じことをしようとしただけにも拘らず、すぐに潰されたおかげで謝り続けているのである。
しかし血を見るのが大好きな人間や、ずるく儲けた人間が我々日本人の中にもいた事は間違いない事実であって、彼らが犯してきた蛮行を繰り返さない為にも、我々日本人は他国にないような反省の工夫をしなくてはならない。それは口先だけの首相談話などではなく、我々の失敗談を真摯に認め、我々の次の世代にしっかりと伝えていく事である。それはとりもなおさず、毎年教科書に南京大虐殺・731部隊などと言った我々の侵略の歴史と汚点を堂々と記述し、二度とこのような愚かな事を繰り返さないように、若い世代に言い聞かせて行く事である。と同時に戦争が終わっているのも拘らずカラフトを奪われたり、スターリンの指示のもとシベリアなどに黒人奴隷のように30万人もの日本人が連れて行かれ、強制労働の結果その多くが死んだ事、明らかに国際条約違反である原爆を人体実験のように広島・長崎に落とされた事実も若い世代に伝え、人類は普遍的に残酷な一面があるという恐ろしさを若い子供達に教え、自覚させると言う教育が必要なのである。

12 温厚で潔い日本人:日本人は生来争い・戦いを好まない。それはいろんなところに現れている。例えば終身雇用と年功序列がそれである。その習慣は最近ではバカにされている傾向があるが、日本の国内だけならそれが永年の平和と安定をもたらしてきたのではないだろうか。外国と争わないのなら、競争をしないのなら無理にこれ以上アクセクしなくても良いのではないだろうか。また女性が基本的に家にいて、子供達を心身ともに健やかに育て上げていくという日本の古来の姿も大事なことであるし、大いに評価されるべき事ではないだろうか。(もっと工夫が必要) 男女同権と男女役割分担というのはともに必要なことではないだろうか。女性の持つ母性は我々男性には悔しくても、どんなにしても及ばないのである。嫁さんが反対しても無理やり私が引き取って命を助け一生懸命世話をしたワンチャンが、結局家内のほうを向いている事実に気がついた時、やはり女性には敵わないなと白幡をあげたのである。結局子供にずっとよりそうのは女性が適しているのである。どんなにしても我々男には子供を産む事は出来ないのであるからだ。男と女がいつも同じことをせよというのは、人間の動物としての特性を無視した意見なのだ。女が化粧を止められないのと同じように、男がゴリゴリでヒゲもじやらの脚を出してミニスカートをはく姿など想像もしたくない。男と女の特性をふまえた上での日本の従来の家庭のあり方は、安定した、競争の少ない平和な日本の終身雇用制度と併せて、日本人の温厚さを保ってきたのである。
日本の武道も穏やかで礼儀正しい日本人を表している。日本の武道は礼に始まり礼に終わる。試合が終わっても相手の陣地に挨拶に行き、お礼を言って帰ってくる競技など他国にはないのである。黙想をし、身を清めまさに色即是空・空即是色なのである。
その潔さの中で一つだけ合点のいかない問題がある。それは昭和天皇の戦争責任である。JR福知山線の事故では歴代社長の責任があれほど問われているのに、どうして当時の天皇およびその子孫に責任が問われないのか不思議でしかたがない。切腹の精神の日本の潔さの中でどうして先の天皇がのうのうと生きていたのか、不思議でならない。ヒトラーの方が日本人的だったのか? 終戦の時点でマッカーサーが天皇を死刑にしなかったのは、彼の失策だったのか、それとも愚かな日本人をまとめておくのにずる賢く利用しただけなのか? 先ほどの平成天皇のパラオ諸島慰霊訪問にしても、世間が騒ぐほど立派なものではないと思うのである。天皇が軍服一枚とスコップ一本、そしてペットボトル1~2本の水だけ持って、お付なしでペリリュウ島に上陸し、自分で地面に穴を掘って2~3日でも何も食べずサバイバルを自主的にしてきたのなら、餓死していった多くの犠牲者たちの苦労の何百分の一、何千分の一、何万分の一でも汲もうとしたのだなと思えるであろうが、綺麗に仕立てた巡洋艦の上で旨い食事に恵まれてプカプカ浮いて安眠してきたのでは、どんな綺麗事を言ってこようが、しらじらしいと思うのである。棒読みの原稿を読み間違い、「先の熾烈(しきれつ)な戦闘」などと読んでいたのは、黒子がそのまま見えてしまって思わず失笑してしまった。また、たったひとりの発言者もそう言った発言をしなかった事、ジャーナリズムが競ってあの訪問を美化し、飾り立てて報道した事が不思議であるし、怖ささえ感じるのである。これも日本人の温厚さの故か?

13 宗教の制約のない日本:日本ほど無宗教が許される国は他にないのではないだろうか。結婚する時は教会で式を挙げ、子供が生まれたら神社にお参りし、死んだら坊さんに拝んでもらって仏さんになる。変幻自在である。しかもその間殆ど制約がない。日曜の朝は自由だし、断食の期間もない。寄付をする必要もないし、酒も飲める。それでもって特にバチもあたらない。しかし何となく仏教の捨身飼虎の功徳精神が頭を支配している。右の頬を打たれたら左の頬どころか、全身を徹底的に完膚なきまで攻撃するというような事は決してしない。他人を蹴飛ばしてまで競争に勝とう等とは決してしない。
そして日本では宗教間の争いが全くない。我々が困った時の口癖として「神様・仏様」とよく言うが、考えてみれば奇妙なのである。神仏同居している。実際同じ敷地に両方が祭られているところさえある。結婚式も神前でも仏前でも教会でも何でも良いのである。どこも取り合い争いなど全くしないのである。宗教戦争はおろか、取り合い・縄張り争いなども全くないのである。それでもって政教分離はしっかりしている。外国では大統領の演説のあとによく「アーメン」を聞くが、日本で首相が「ナンマンダブ」でも言えばおおごとである。自由そのものである。多神教なのか?

14 教育:日本は明治以来義務教育を徹底させて、いち早く識字率を世界最高に持っていった。その結果国民のインテリジャンスは非常に高いものとなった。それにより我々は理路整然と物事を考え、的確に判断出来るようになった(筈である)。それにより我々の生活レベルは飛躍的に向上してきた。ただ英語教育は失敗の連続でいまだにその失敗を続けようとしている。言葉というものは苦痛の中でしゃべれるようになるものではない。しゃべらないと死ぬという状況ならいざしらず、しゃべらなくても食っていけるのなら、怒られながら誰がしゃべろうなどとしようか。少しでも間違っていたらすぐペケをつけて文句をつけたがる今の教え方なら、義務教育3年の英語授業を6年にしようが、8年にしようがたとえ10年にしようが、決して日本人は英語に口をわらない。ペケをつけるのではなく、ちょっとでもしゃべったらすかさずマルを与え、褒めて大騒ぎする事だ。試験などいらない。共通の教材などいらない。教師がその場・その日の話題を持ち出してくる事だ。そして高度なテクニックと英語力を要する教師の評価、例えばTOEIC・英検、父母を交えての人気投票などの成績を、教え子の参考成績として付記しておく。そうすることによって英語は音楽・絵画と同じように子供達に受け入れられ易くなるのである。英語を通して世界を見るのは楽しい。そう子供達に思ってもらえるように、そして日本が世界と仲良く交わって行ける様に教育関係者はもう一工夫すべきである。

15 美しい風土:日本の四季の移り変わりは素晴らしい。多少つらいこともあるが、それがまた「苦あれば楽あり」である。いま家の玄関ではツツジが満開で、庭では鯉のぼりが悠々と泳いでいる。四季折々の食材が楽しめ、しかも流通の発達によって遠くのものでも新鮮なままで手にはいる。食べ物は比較的に安いし例外を除いて餓死することはない。社会保障は行き届き過ぎて、ずるく保障費を受ける事だって出来るほどである。戦後いたコジキなど今時目にもしない。ホームレスだって主義をもってしている事が多い。以前夏の暑い日にホームレスの人に声をかけて、「施設があるから涼しい施設に連れてってあげましょうか?」と言ったら、「あんな堅苦しいとこなんか行きたくない。ほっといてくれ」と追い返された。生きようとしたらどうしてでも食って行ける世の中のようである。冬の受験戦争は辛いが、春の桜入学はこの上なく楽しい。9月入学など外国のマネをして実施することなどない。我々は日本を愛し、大事にし、楽しく仲良く生きていけば良いのである。

おわり






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