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前略 吉●理●様

K1の没落とともに、破門たら除名たら前科たら、目を背けたくなるような言葉が、やけにまいまいしている我が道場ですが、君にはお元気な御様子、安心しております。

それにしても今の人間はどうしてこうも自分の事しか考えないのでしょう。アペノミクス?ふざけんじゃない。

株高?我々株など買えない広汎な一般平民にはとんと関係ない別世界の話です。株遊び又は大もうけをしているような輩は、その金で我々のように大根やニンジンを買うわけではないでしょう。汗ひとつかかず余剰の金で貴族振る舞いをしているだけのように見えてしかたがないのです。

円安?誰が輸出するのですか?中小の企業はおよそ高騰した材料を輸入するだけでしょう。堂々と輸出して円安の恩恵を受けるのはトヨタのような一部の大企業だけでしょう。貧富の差が開くだけでしょう。

それでもって「大本営」は景気が良くなったとの自己判断で消費税を上げようとしています。消費税持ち出しの我々医療従事者にとっては死活問題です。

世の中原発反対さえ唱えていれば「先進的」と見られるようです。しかし果たしてそうでしょうか?確かに原発は絶対安全という神話は崩れました。しかしいろんな事が改善され、残った危険はごく僅かでしょう。ではそのごく僅かな危険を恐れて化石燃料を使ったとしたら何が残るでしょうか。それは「僅か」どころか100年200年先には「確実」に地球温暖化が進行し、環境破壊・食糧難、それに伴う争いが起き、イスラムあたりがきっと「核」を使用するでしょう。そうなると福島から避難するどころか、人類全体がどこにも避難できなくなるでしょう。これは「僅かな危険」ではなく、ほぼ100パーセント確実な悲劇なのです。

原発反対をお題目のように叫んでいる人たちは一体後世の人たちの事を考えてやっているのでしょうか?余りにも利己主義に走っているのではないでしょうか。それよりも黙って身近な省エネを自他ともに実践するほうが大事なのではないでしょうか。

まるで沢穂希状態でメマイがしてしょうがない今日このごろ。知らぬまに6人の孫持ち(もうすぐ7人)になってしまう私です。あの子たちの将来が気がかりですが、恐らく何も出来ずに終わってしまうのでしょうね。くわぱらくわぱら。

草々

2013年7月11日 八杉 誠


あさましい烏合の衆   尖閣・竹島問題をめぐって

尖閣諸島・竹島はいずれも日本のものではない。しかし中国・韓国のものでもない。それらは永年にわたって神または自然が作り上げた、われわれ全人類へのプレゼントなのである。そしてついこのあいだまで日本も中国も韓国もまるで関心を払っていなかったのみならず、所有権も主張していなかったのである。それが僅かな石油が出てきたというだけで途端に醜い分捕り合戦を繰り広げだしたのである。

自分はこのバカ騒ぎを見ていて愚かな一族の遺産相続争いを思い出す。すなわち親が生きている間は喧嘩もせずにいたのが、親が死んで財産が残ったのが分かった途端に醜い取り合いの争いを始めるという、よくあるシナリオである。自分は何の努力もせずに親の力で貯まった物を欲しがるという、実にあさましい醜い姿なのである。

本来一部のつまらない国民が島を欲しがって騒いでも、双方の争いが大きくならないように、国民をなだめ平和的解決を図るのが賢い指導者の姿ではないか。どうしても境界線が必要ならば島の真ん中に線でも引けばすむ話である。ところが国内の人気取りに走って国民をたきつけるような事をしているのが各国政治家の現状である。そのような国のトップには信頼して付いていくに耐えないのである。

そもそも島にせよ金鉱にせよ石油にせよ、所詮誰も努力して作り上げたものではない。以前は植民地政策のように列強がこぞって地球資源を手に入れようとしたが、今やこのグローバル時代。すべての資源は全人類で共有するのが新人類のすべき事ではないだろうか。社会主義ならぬ、世界主義とでも言うか。

あるいは二次大戦中日本軍は韓国・中国に多大な迷惑をかけた事が尾を引いているのかも知れない。確かに日本の教科書にその過ちを殆ど載せていないのは反省が足りないのかもしれない。しかしだからといって、戦後処理がすべての国の立会いのもと終わっている今、個々の事例について改めて補償あるいは代償を払えというのは、余りにも弱い者いじめに過ぎない。アフリカは奴隷補償をアメリカに求めるだろうか。植民地時代の補償を被植民地は求めるであろうか。広島・長崎の被害補償を現地の人は叫んでいるだろうか。シベリア抑留の補償が話題に上ったことがあるであろうか。

今の時代全世界の人類が和と協調の下、仲良く暮らしていくのがインターネット時代の新人類の歩むべき道なのではないだろうか。その為にも各国民を正しい方向に導いていける賢い指導者が欲しいものである。


瓦礫(ガレキ)受け入れ拒否に愕然

震災直後に、東北の瓦礫受け入れに名乗りを上げていた自治体は400を超えていたが、ここにきてそれがたったの6件に減ったという。拒否の第一の理由は放射能汚染に対する嫌悪だという。

大体エコだとかクリーンエネルギーだとか言って、湯水のように電気を使い、原子力による電気を我も我もと求め続けてきたのは一体誰だったと言うのだ。東電が、はたまた関電が電気を押し売りしに来たとでも言うのか。とりもなおさず我々日本の国民全体の要望と仕業ではなかったか。勿論原発を担当していた学者・技術者・職員の読みの浅さもあったでだろう。しかしあのような前代未聞の事態を誰が正確に予言出来ていたであろうか。後出しで偉そうにいろいろ批判している口ばかりの人間もいるが、ではそんな輩が今迄に一度も間違った判断をしたことがなかったと、胸を張って断言できるというのか。我々日本人全体が求めた電力であり、我々全体が原発を作らせたのであり、我々全体があのような事故を誘発したのである。それなのに瓦礫を東北の人達だけに押し付けるのはどうか。

もう一つ、既に多くの風評被害が出ているが、放射能を過剰なまでに怖がり過ぎいるのではないだろうか。広島・長崎に原爆が落とされた時、立ち入り禁止区域などなかった。翌日から大勢の人達が被災地に(自由に)出入りした。だからといって広島・長崎に出入りした人間全員が癌になっているわけではないのではないか。また、中国が核実験をしていたころ、線量測定もせずに平気で野菜や肉を食べてしまっていた。それらについては、今ほど騒がなかった。多くの人が憧れる宇宙飛行士は莫大な宇宙線(放射線)を浴びているし、先日行われた天皇陛下の手術では、カテーテル検査をしバイパスを入れた医師達も、数分間肩から先にレントゲンを浴びている。その道の専門家などは一日に何度も検査をし、年間何時間、一生通じて何千時間、人によっては何万時間とレントゲンを浴びているのである。患児と一緒に時々レントゲン室に入って放射線を浴びる我々小児科医も毎回被爆している。だからといって飛行士や医者に癌が多いという統計はない。

確かに子供は大人に比べてレントゲン感受性はやや高いし、我が子を心配する親の気持ちも非常によく解る。しかし東北地方にも子供は沢山いる。既に、地震、津波で大きな被害を被った人々に、更に困難を背負い込ませるのではなく、被害に遭わなかった我々も責任分担するのが同朋としての義務ではないだろうか。多量に電気の恩恵を受けている大都市などから、なぜ率先して問題を引き受けようという声が上がらないのだろうか。利用者負担の原則からすれば、原発なども電気を大量に使用する大都市エリアに建設するのが公平だったのかもしれない。(非現実的ではあるが)。

ただ、行政による瓦礫受け入れ説明会に強引に押し入り「反対」を叫んでいるばかりでは、何の解決にもならない。多くの国民が、純粋な気持ちで行った献金を有効に活用するためにも国民がみんなで知恵を出し合うことが必要なのではないか。他人の為に黙々と汗を流すボランティアさんも沢山おられ、本当に頭が下がる。他人事として捉えるのではなく、我々日本人の仲間が本当にピンチになっているとの認識を多くの人が分かち合うべきだと思う。


ダマラさんの法要に参列して

日本人の奥さんと結婚して阿倍野区で半年前にネパール料理店を開店した、ビシュヌ・プラサド・ダマラさんが、去る1月16日未明阿倍野区の路上で4人の日本人に何のゆわれもなく突然襲われ、逃げ惑った挙句撲殺されてしまった。原因は人種差別だと言われている。

逃げ惑うダマラさんに大勢で殴りかかり、逃げようとよろけるダマラさんに更に殴る蹴るの暴行を繰り返し、しまいに自転車まで投げつけて、起き上がれないように迄する一連の行為は防犯カメラに収められ、繰り返しテレビ・新聞で報道された。事件を知った浄土宗の僧侶達はダマラさんの冥福を祈って2月25日に法善寺で法要を営んだ。日本に溶け込もうと努力していたダマラさんに対して、4人が行った暴力(犯罪)を私は同じ日本人としてこの上なく恥ずかしく思い、大きな謝罪の念にかられて、いたたまれずに法要に参列した。

人種や文化の違い、男女や生まれつきの姿形で差別するというのは、同じ人間として絶対に許されない行為である。つまり他人を差別することにより、自らの人格の低さを世間に露呈していることに気付かないのである。まして、差別だけでなく、エスカレートして他人の一生を奪う殺人は、絶対に許されない行為である。特に今回のような動機(人種差別)による殺人については、厳しく裁かれるべきだと思う。

さて当日は同行してくれた当院の婦長と一緒に道頓堀から法善寺横町に雨上がりの道を歩いて行った。法善寺に着くと、通りの賑わいとは裏腹に法要の参列者は少なく、とても寂しいものであった。表通りには、雨の上がるのを待っていた若者達が大勢繰り出してきて、春を謳歌していた。大量に報道がなされたので、多くの人が私と同じように関心を持ち、お参りに来ることを多少期待していたのだが、今の日本人にそれを望む方が無理だったのかもしれない。目の前で、大騒ぎしながら遊んでいる多くの若者を見つめながら、本当にこれからの日本は大丈夫なのかと一抹の不安を覚えるのであった。(犯人だけでなく、近くで不幸な出来事があっても自分には関係ないと、見て見ぬふりをする今の日本人も同様に罪がないとは言えないのではないか・・・・。)


ハワイ往きの飛行機でドタバタ~雲の上でもリラックスさせてもらえない私~

5月の連休に、家内と2人で大好きなハワイ旅行へ行った。私のハワイ好きは、年季が入っていて29回目である。

関空からホノルルまでの退屈な長い飛行時間も、日頃の忙しさから解放されてグッスリ眠ることが出来るため、私にとってはハワイ旅行の楽しみなひと時である。

今回も機内食で貴重な睡眠時間をムダにしないよう、関空でしっかり食事を済ませてから乗り込んだ。

 
飛行機が離陸し、順調に水平飛行に移った。早速、いつものように背もたれを倒し、完全リラックスの状態でホノルルまで熟睡の大勢に入った。(これで準備万端、目が覚めるとホノルルだ!)

ところがである。1時間くらい飛んだところでスチュワーデス(CA)から、「お休み中すみませんが、食事の時間です。お肉にされますか、魚にされますか」と揺り起こされてしまった。(なんと気の利かない航空会社だろう。大抵の航空会社では「お目覚めになりましたら、デイナーの準備をいたしますので、お声掛けください」と書いたメッセージカードを前の座席にそっと張り付けて行くのに・・・。)

そこで、「I need not dinner nor Drink.」と断った。


これでようやく安心して眠れそうだとブランケットを被るや否や、ハプニングが起きた。

 
「重病人が発生しました。お客様の中でドクターはいらっしゃいませんか!」

 
機内放送が流れた。

大急ぎでアイマスクをおでこにズラして、例のCAの誘導でその乗客の席へ駆けつけてみると、35歳位の男性がバーフバックを持ってゲボゲボはいているではないか。

日本では、ノロ・ロタウイルス感染症がまだ流行っていたので、CAへマスクを持ってくるよう頼んだが、あいにく積んでないとのことだった。緊急時なのでおでこのアイマスクをマスクに代用し診察に臨んだ。


患者の隣席の奥さんに下痢の有無を問い合わせたところ、無いとのことだった。CAに体温計・聴診器・血圧計・懐中電灯を用意するように指示して、体温を測ったところ平熱だったので、まずノロ・ロタの可能性は除去された。また四肢の麻痺はなかったので脳梗塞もオミットされた。さらに胸部痛もなく聴診上異常はなかったので心筋梗塞・不整脈の可能性も否定された。最後に血圧を測ったところ、上が85位であった。さらに奥さんによると普段から血圧は低いほうで、乗ってからビールを一缶飲んだとのことだった。

これは低血圧がビールと上空の低気圧によって助長された一時的脳嘘血発作であると判断した。そうしているうち患者はだんだんと意識を失ってしまったので私の指示で床に寝かせ、ベルトをとき、下肢を挙げ、枕をはずさせて、かつ嘔吐に備え横向きで寝かせるよう指示をした。

先ほどのパーサーが不安げな表情で関空へ帰るべきか、そのままホノルルまで行くべきか恐る恐る問い合わせてきた。私は冷静に「Go to HONOLULU.  I guarantee his health」(ホノルルへ行ってください。私が診ています。)と即座に答え、更に詳しく,日本で流行っているノロ・ロタウイルス感染症ではなく、他の乗客へ伝染する可能性もないし、脳梗塞、心筋梗塞などの緊急性もないので、低血圧に対する保存的療法で十分であると説明した。パーサーはすぐに報告に行き、機長も私のアドバイスに納得して飛行機は引き返すことなくハワイに向かった。(この時、乗客みんながホノルル行きにホッとしたことだろう。もちろん一番ほっとしたのはこの私。患者さんが重篤でなくてよかった。)

 
そうこうしているうちに患者は徐々に意識を回復し、全身状態が落ち着いてきたので、私も自分の席へ戻った。ようやく、睡眠に入れたのである。(ヤレヤレ。)


ホノルルに付くと、例のCAはもちろん、飛行機のスタッフ全員が笑顔で私に握手を求めてきた。

 「Thank  you !  Thank  you ! 」

(まるで英雄扱いのように感謝された。)

 

毎度のことながら、家内とのハワイ珍道中はさらに続く・・。 

 <おまけ>

クレームの謝罪と、感謝の気持ちが込められたサービス券。

 

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アンリ・デュナンとオリンピック

 先日宝塚に赤十字の産みの親アンリ・デュナンの物語「ソルフェリーノの夜明け」を見に行って来た。一方家に帰ってみるとテレビでオリンピックをしていた。この二つの事は一見全く関係がないように思われるが、私はその二つに大きな共通の理念がある事に気付いた。

 赤十字の理念は敵味方なく人を助け、人類の幸福と世界の平和を願う事である。またオリンピックの理念も敵味方なく技を競い、戦争を回避し人類の幸福と世界の平和を祈願する事である。ところが今回の国母選手の騒動はこの根本精神を全く忘れてしまった発想から来ていると思われる。

 確かに国母選手の服装と態度は褒めたものではないし、私自身どちらかと言うと好きではない。しかし問題は彼が誰も殺してはいないし、誰の物も取っていないし、誰をも傷つけていないし、攻撃すらしていない「危険ない」存在にも拘らず、彼がひたすらしてきた努力を外力が潰そうとした事なのである。無害な人間の行く手を遮り、将来を閉ざすような事を何故他人がしなければならないのか全く理解できないのである。出場停止どころか召還などもっての他なのである。攻撃性の全くない人間に対して、自分と異質な存在だというだけで何故そのような攻撃をしないといけないのか全くおかしいのである。そのようなところに諍いと争いが生まれていくのである。戦争回避を目的としているオリンピックで争いを作り出してどうすると言うのだ。オリンピックは異なった国・人種・習慣・服装の人間が集まり、お互いが認め合い許し合い、歩み寄り平和を追い求めるのが目的なのではないか。処罰を求める人は形ばかりを考え精神を忘れているのである。

 世界は大きく変わっている。世界の首脳同士すらノーネクタイで会談するご時世である。進んだ国では小学生でも化粧を自由にするとか言う。バンクーバーの大通りのオブジェは、丸めた紙くずを人の背丈もある金属で形作って堂々と置かれているのである。今時何が正しくて、何が間違っているのか誰も偉そうに言えないのである。害がなければ何でもそっとしておいてやるという広い心が必要なのではないか。処分はまるで国民総動員を発令し国防服を皆に着せようとしているような発想のようだと思うのは考え過ぎであろうか。出場辞退を申し出たスノボ協会のお偉方は、アバクロやホリスターを知っているのであろうか。

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(2010年2月20日 院長 八杉 誠)


武道人の品格

2月6日の午後10時よりNHKで朝青龍の引退について、やくみつる氏・元横綱北乃富士・NHK司会者が対談をしていた。

 しかしその内容は的はずれであり、かつお粗末なものであった。

 まず朝青龍を引退に追い込んだ理由は横綱の品格に欠けたからだと言う事で意見が一致し、後の議論の前提となっていたが、それは大きな間違いである。引退しないといけなかった大きな理由は2つある。その一つは仮病を装って偽診断書を相撲協会に提出した職場放棄である。2つ目は明らかな傷害事件を起こしたという事実である。それは事件化していようが、示談により事件化していなかろうが明らかな犯罪であり、そのような前科者に神聖なる国技をさせてはならないのである。ましてや武道家の手は「神の手」であるべきものであり、それをもって一般人を傷つけるなど持っての他なのである。そこを誰も指摘しなかったのは全くもって的はずれとしか言いようがなかったのである。

 そのような拍子抜けの進行の中で次なる議論は「品格」についてのやりとりであった。司会者が「品格」の定義を出席者に求めたところ、3人の回答者はこぞって「見えない・はかれない・答えようがない」と答えていたのである。何の為のゲストだったのであろう。その程度なら誰でも発言できるのである。出演料を払う必要などないのではないか。

 「品格」は和英辞書には載っていない。「品」はeleganceと訳されている。しかし品格とはそんな軽いものではない。では「格」は何なのだろうか。自分はそれをdignity 即ち「威厳」と解釈する。

 勝負には必ず勝者と敗者がいる。即ち自分が勝者なら、相手は敗者。自分の存在は敗者の存在があっての上なのである。言ってみれば自分が今あるのは敗者のお蔭なのである。ある意味敗者に感謝の念を持つべきなのである。朝青龍について言ってみれば、その感謝の念は取り組み相手のみならず、そこ迄育ててくれた親方・部屋・相撲協会・多くのファン・日本の社会に対して持ち、そしてその長い歴史に深い感謝と畏敬の念を抱くべきなのである。大きな歴史の歯車の中では、たった一人の人間の存在など無に等しい事を謙虚に痛感すべきなのである。そして次に敗者の体と心の痛みに思いやりを馳せるのが必要なのである。更に自らの技と行動が世の光になるよう奉仕の心がなければならない。その「感謝・思いやり・奉仕精神」が揃ってこそ品格というものではないだろうか。自分が勝ったら「自分が一番偉い、自分より偉いものはない」等と考えてしまうと、その人はもうそれ以上進歩はしないのである。

 東洋の考え方ではもともと森羅万象全ての存在は同一平等なのである。その中で仏様に「お前は人間・お前は空・お前は山・お前は川」などと振り分けられただけなのである。従って人間社会もたまたま総理大臣役に当たったり、ホームレス役にならされたりしているだけの事なのである。従って「自分一人で偉くなった・世の中自分一人」などという考え方は東洋思想ひいては日本の国技とは相容れないのである。与えられた役柄をただ従容として受け入れ、かつその演技を最高に美しく演じないといけないのである。

 正直と謙譲の美徳を発揮してこその「品格」なのである。但し日本の中心にある政界自身が嘘と金銭で汚れきっているのでは、世も末としか言いようがないのであるが。

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(2010年2月10日 院長 八杉 誠)
 


子供のハナ、耳鼻科へ行く?小児科へ行く?

お子さんが鼻水を出している場合、耳鼻科に駆けつけるお母さん方が多いようです。しかし耳鼻科は大きく分けて外科系に属していますし、毎日耳鼻科に通って鼻水を吸ってもらっても、根本的な解決にはなりません。しかも子供は一般的に言って外科系のドクターを怖がり、医者嫌いになってしまう事が多いものです。処方にしても外科系の医師の、小児に対しての薬は、咳・鼻・熱の成分が一定の割合で入った総合感冒薬が多く、小児科医が一人ずつのお子さんの症状に合わせて、別々の割合と体格を考えて手作りで処方するお薬とは、的確性において可なりの違いがあることが多いものです。

何ヶ月も、あるいは半年でも一年でも耳鼻科に通って、あまり病状の改善を見ず、しかも医者嫌いな子供にしてしまうよりも、ハナや、ましてセキが出ればさっさと小児科に行って適切な治療を受けましょう。

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人生変えた空手「道」

空手と私の出会いは、30年前にさかのぼる。学生時代、遷延性腎炎に5年間悩まされた私は、その全快が開業時期と一致したこともあって、何気なく近くの町道場に入門した。しかしそこで私が体験したのは、大病克服の反動もあって思いも及ばない快感であった。

頭でっかちになりつつあった私は、すべてを忘れて取り組む「組み手」の魅力に取り付かれた。その「道」を進むのには金も地位も天性の才能もいらない。必要なのはただ努力と忍耐。一着の道着さえあればいいのである。自分をつくっていくのは、自分自身である。高価な道具、例えば、高価なゴルフクラブやランニングシューズ、詐欺まがいの高いトレーニングマシーン、そして人をバカにしたような高い入会金なども一切要らない。

いまや私の人生の中心になったと言っても過言でないこの空手「道」によって、想像もつかない沢山の財産を手に入れた。

まず、子ども達との強いつながりである。幼い子ども達も道場に行きたがったので、4歳になるとすぐに次々入門させた。そこで子ども達が見たのは、自分達よりも上の帯の父親であり、そしてまもなく指導員となった父親の姿だった。子ども達は医師としてよりも「道場の指導員」としての父親像を強烈に印象づけられたのであろう。我々親子には、断絶どころか反抗期も全くなかった。そしてこちらが強制したつもりも全然ないのに、「お父さんと同じ方面の仕事をしたい」と言って、気がついてみれば3人とも医学生になっていたのである。知らぬ間に背中をずっと見られていたのだなと、改めて自分を律する気持ちを強めたのであった。

一方、私の患者さん達は、診療の合間に欠かすことなく週2回道場に通い続ける私の姿に、健康への自助努力を無言のうちに感じているようである。私の医院では、簡単にクスリを渡さない。まず自分で健康に対する努力をしてもらうことにしている。毎週火・金の夕方になると、プンと湿布の臭いをさせて診療にあたる私に、誰も健康への自助努力に関して異議を唱えられないはずである。

道場通いは辛い。今日はさぼろうか、クーラーのきいた部屋に寝っ転がってテレビでも見て昼寝したいなという誘惑に何度襲われたことか。しかし、そのたびに私の脳裡にひらめいたのは、私の生徒達の顔である。彼らが待っている、彼らを裏切ってはいけない。そして若い彼らからもエネルギーを与えてもらわねば、と奮い立っては、今日も通い続ける空手「道」の日々である。

(正道会館 三段 八杉 誠)

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元K1世界チャンピオンのアンディ・フグと北区・正道会館にて(写真右が院長)


看護師さん or 看護婦さん?

「では、看護師に服を脱ぐのを手伝わせますから」と、いきなりお医者さんに告げら れ たら貴方はどう感じますか?私なら「待てよ、ひょっとしたら野郎が俺の着替えをさせるのかよ」と思うでしょう。男性の私でも抵抗を感じますし、そこには癒 しも安心も感じません。ましてや、もしも貴方が女性だったら脱衣の介助など絶対に男性にはして欲しくないでしょう。「私に付いて来るのは男性か女性かハッ キリさせといてよ」と思われるでしょう。

 「看護師」という表現の中には、性別は一切含まれていないのです。それが届出など の書類なら、いたしかたない場合もあるでしょう。しかし、医療の現場では、性別は絶対に必要なのです。それは性差別ではなく、必要な性区別なのです。丁 度、文語 体と口語体があるように、書けば「看護師」で、話せば「看護婦さん」でいいのです。書けば「医師」でも、誰もお医者さん本人に向かって「医師さん」とは言 わない でしょう。特に、ある程度怖さを漂わせる必要のある事もあるお医者さんに対して、ナースという存在は何となく甘えさせて欲しい存在で、それは決して「看護 師」ではなくて、「看護婦さん」の方が良いのではないでしょうか。例外として、精神科病棟などのように「男性看護士」のままの表現でいい場合もあります が。

 ちなみに、当院には「看護婦さん」しかおりませんので…。