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セクハラ報道に物申す

岐阜県岐南町の町長が「心が折れて」辞職した。その間、報道各社のコメンテーター達は、まるで野犬集団の合唱のように、寄ってたかって小島町長を一方的に非難した。

自分は、それにいささかの疑念を抱いている。

まず、ハラスメントという新語が、最近いとも簡単に使用され過ぎているのではないかと思う。まして女性が何かを訴えると、すぐに「セク」なる冠頭詞をつけてしまって同情する風潮があるのである。

ハラスメントとは仕手(行う人)と、され手の意図と受け取り方によって、大きく変わって来るものである。仕手(行う人)がそれを意識してやったか、受け取り手がそれに不快感を抱いたかによって、同じ行為であっても、成立する場合としない場合があるのである。但し何でもイヤイヤという人間もかなりおり、何でもハラスメントの元となりうる、ストレスだらけの世の中であるのは否めない。

但し、後出しゲームのように「ミーツー」と今になって、合唱するくらいなら、何故99件もの「セクハラ」を受ける度にその場で異議を唱えなかったのか。卑怯な集団群衆心理のようにも思える。その場でその都度、小さくても抗議を受けていれば、町長も少しは身を引き締めていたのではないか。

また、職員との間に信頼関係があれば、成立しなかった「セクハラ」も多くあったのではないであろうか。ちなみに、うちの職員は私の腕の盛り上がった血管を「気持ちいい」と言ってしきりに触りに来る。また二人の職員が私の前と後ろに来てふざけて、腹で私を挟み撃ちにしてしまったこともある。私の乱れた髪を、手で勝手になおしてくれたこともある。私がパンツ一丁になって診察着に着替えている時に、堂々と部屋に入って来るのは、しょっちゅうである。私も毛のないツルツルのスネを彼女らに披露したこともある。彼女らの頭を撫でて褒めることも、しばしばある。ご苦労さんと言って肩に触れることもある。患者さんにいただいたお菓子を皆で分け分けするのは、しょっちゅうである。いずれも今のところ、嫌な顔をされたことはない。

このようにお互いが信頼しあい、尊敬し合い、家族のように仲良く協同で仕事をしていれば、何の問題もないのである。

急に裏切られ、マスコミの恰好の餌食になっている小島町長にも、弁解の余地はあるのではないか。但し村八分にあい、大人の世界のイジメを思いきり受け「心が折れてしまった」のでは仕方がないが。

2024年3月7日 八杉誠


前略 ●●●様

 先日は近況報告有難うございました。お元気なようで何よりです。
当方はリタイアするにできず、夏には4000メートルの高さを求めてスイスのマッターホルンに行ったり、秋には5000年の昔を求めてエジプトに行ったり所謂現実逃避を試みています。

 というのも日本に帰って来たらまあ下らない話ばかり。特に最近最も報道されている消費税の軽減税率などは最たるもの。
 食わなくては死んでしまう食べ物に迄消費税をかけるなど、血税そのものなのである。それを10パーのところ8にしておいてやるなんて、人をばかにしたような話である。軽減と言うならいっそ0にするのが筋でしょうが。それをマグロだけの刺身なら生鮮で8、鯛が入れば加工で10などと誠しやかに議論している政治屋とその手先のマスコミの欺瞞ぶりに我慢がならない。何だと税源がないだと?汗水たらして働いても所得税と言って取られ、残ったなけなしの金で食い物を買おうとしてら又消費税と言って取られ、二重どりしておきながら税源がないなどとは言わさないぞ。

 なにも肉体労働ばかりが大事と言うのではないが、世の中汗水たらさず指先一つ、口先一つで濡れ手に粟の大儲けをしているずるい連中が一杯いるではないか。まるでゲーム遊びのように株をあっちに転がしこっちに転がしして、左うちわの連中が。一般国民の収入からの引き去りは30パーセントなのに株貴族の収入にかかる税金がたった20パーセントとはどういうことなのだ?そんな連中からは50パーセントでも80パーセントでも徴収すれば良いのだ。そうすると税源不足などいっぺんに解消できるはずである。株に回す金はなにもそれがなければ今日明日の食べ物が買えないという性質のものではない。マネーゲームなのである。それに比べると労働者の持ち帰り金は即食う為の金なのである。死活問題なのである。

 しかしテレビなどのコメンテイターもそこに言及しない。まるで報道管制のようだ。新聞界は政治批判をせず、うまく軽減税率の恩恵にひたったようだ。政治屋は株遊びの資産家や企業からいろんな形での賄賂を受け取り、彼らの思い通りの徴税・政治をしているのである。まるでフランス革命直前の、貴族・近衛兵・一般市民の構図と同じではないか。日本は頭の上を鉄砲の弾が飛んだり、外国のテロリストが入って来にくいからといって平和ボケしている場合ではないのではないか。いつまでだまされ続けているのだ。社会構造改革をしなくてはならないのではないか。「社改党」でも誰か立ち上げてくれないものか。

 毎日4キロのダンベルを600回持ち上げ、スクワット100回、足上げ腹筋100回、拳立て伏せ100回締めて約15分を朝夕の診察の前に一日2回、薬代わりにしています。また火曜日には道場に出向き皆と練習、金土日には時間のある限り地下の自宅道場でサンドバック突き蹴りをしています。体脂肪17パーセント。絶好調です。
 自分を救うものは自分しかありません。残り少ない人生を大事に謳歌しています。
また。

草々

2015年12月17日 八杉 誠


こよなく日本を愛する 世界に例を見ない日本の魅力15

自分は日本に生まれ育ち、66年間日本に住んできて幸運だったなよかったなと、最近つくづく思うようになった。それは天皇を崇拝したり、旗を振ったりするようなドグマチックなものではなく、純粋にナチュラルなペイトリオットとしてそう思うのである。今までいろんな国を旅してみたり、いろんな情報を見聞きしてみてもやはり結局は日本ほど良い国は他になく、この経験に基づく事実を外国の人たちにも是非紹介したいとさえ思うのである。

1 安全で平和な日本:日本の新聞などで扱われている殺人事件や発砲事件は、我々日本人にとっては目を奪われるような事件であるが、それらは外国においては日常茶飯事すぎて一々記事にすらならないようなものである。それは明治維新において刀狩りをした事によって、基本的にわが国内には武器が横行していないからである。ライフル協会や質の悪い警官も存在せず、基本的に治安を信頼できるからである。日本では背を向けて逃げる市民に向かって警官が8発も銃を撃つどころか、襲い掛かってくる暴漢の足に向けて一発威嚇発射しただけでも、その是非を問うような記事が報道される位である。又先の戦争の経験から、戦後70年間不戦を誓い続けて、一発も他国に対し発砲した事のないのも自慢できる実績である。
又日本は訴訟の少ない国である。アメリカでは「ベイビーキッサ-」= 赤ちゃんを見つけるとやたらキスをしに行って票を稼ごうとする政治屋、「アンビュランスシーカー」= 救急車を追いかけては裁判をけしかける悪徳弁護士、と言う俗称があるように、何かあれば裁判にして金儲けをしようとする一般人と裁判官が横行しているが、日本ではおよそ言われのない言いがかりで訴えられることはない。泥棒に入ろうとしたら屋根が抜けて落ち骨を折った犯人が、家の持ち主に「人が乗ったら破れるような屋根を作るな」と家の持ち主を訴えたと言う話は有名であるが、日本ではそのような馬鹿げた事はおよそない。安心して暮らせる世の中なのである。

2 正直な日本人:日本でお金を落としても、それが持ち主に帰るパーセンテイジは実に90パーセントである。イタリアなどでは、お金がもどるどころか、一番神聖なる祭壇の前が一番危険だと現地ガイドから注意を受けた。スリは神から与えられたいただき物だとか。自分の兄はロシア旅行をした時、夫婦で朝の散歩中3人の警官にパトカーに押し込まれパスポートを取り上げられ、約3万円と交換に開放とパスポート返還を受けた。付き添いガイドに申し出ても「そんな事はここではよくある事なので知りません」だとか。自分もデンマークのチボリ公園入り口で写真撮影中に、隣に擦り寄ってきたアベックに肩掛けカバンを開けられていた。同じツアーの人が教えてくれて間一髪で難を逃れたが、落ちた金を返すどころか、生き馬の目を抜くような事が外国では当たり前なのである。アメリカでは金を拾っても決して警察に届けない。日本のような交番がないせいでもあろうが、苦労して本署に持って行っても犯人扱いされ、「どこで手に入れたのか」と根掘り葉掘り数時間の尋問を受けるのが落ちなのである。

3 親切な日本人:日本のレストランは最高である。まずどんなチンケな食堂でも、店先に本物そっくりのサンプルが置いてあるか、少なくとも写真入りのメニューがそなえてある。外国ではサンプルはおろか、写真すらない。良いとこ日本語のメニューがあったとしても、それがまたフランス語のカタカナばかり書いてあって、自分のような無骨者にはさっぱり理解出来ない。食事を注文している段階で目まいと吐き気を催すのである。やっと注文が出来たとしても水はまず自動的には出てこないし、頼もうとしても担当の店員しか絶対に対応してくれない。始めにしっかりと自分を担当する店員の顔を覚えておかないと、その御仁以外どんなに声をかけても返事をしてくれない。ツンとして横向いてしまわれるか、良いとここっちを向いてくれても、シラーとされるか、ニヤーとして通り過ぎられるかである。チップをくれる客以外には絶対にサービスしてくれない。非常に割り切っていてクールなのである。それに比べ日本の食べどころでは、どの店員でも大抵は愛想良く返事をしてくれる。店全体で接客してくれるのである。まさに日本特有のオモテナシの精神である。
また電車やバスに乗った時につくづく思うことが2つある。まず時間が正確である事。自分の大好きなハワイイでは「No, I’m not late. I’m on Hawaiian time.」という言い方がある。「いや遅れたんじゃないさ、ハワイイアンタイムで来たのさ。」 日本ではおよそ時刻表を信用して良いのである。またそのアナウンスの優しい事。出発のアナウンスに始まり、行き先・次の停車駅・時には到着時間のお知らせ、落し物に御注意迄言ってくれる。ところが外国ではおよそそのようなサービスはない。自分でしっかり自覚して意識して勝手に降りるか、しっかり周りの景色を見ておかないとならない。オモテナシそのものである。

4 多彩な日本食:食べると言えば日本人ほど多彩な雑食人種はいないのではないだろうか。高級なフランス料理をはじめ、肉料理・魚料理・煮物・焼き物・揚げ物、そして生もの・ゲテモノ。特にこの生ものは世界に例を見ないであろう。魚類はいうまでもなく生肉さえも安心して食べられる。肝を生で食べられる国など、世界中どこにもないであろう。それというのも日本は清潔な国だからである。決して我々が野蛮なのではない。法律も整備されているし、第一作る側も良心的に責任感を持って衛生を考えている。ちょっとした異物が入っているだけでも大騒ぎである。またダシや醗酵食品など、外国の人には分らないような微妙な味付けがある。日本人は繊細な舌の持ち主なのである。また食器が美しい。純粋な日本料理は食器を楽しむとも言われている。

5 箸の歴史:微妙で繊細な日本食の味付けに合わせ、我々日本人は巧緻運動の名手である。箸という道具は我々を非常に器用にしてくれている。たった2本の単純な道具で、あらゆる動作を可能にする。挟む・切る・混ぜる・突き刺す、そして口まで持っていく。歯の間に挟まった物まで取ってみたり、歯糞まで擦って取ることすら出来るのである。ナイフやフォークといった武器まがいの食器よりよっぽど安全で、多彩な使い方が出来るのである。自分は外国旅行をする時でも必ず竹箸を持って行く。スパゲッティーでも持参の箸で食べるし、ケーキでも箸で食べる。しかもこの清潔な道具を我々日本人は遥か昔の奈良時代から使用しているのである。ナイフやフォークといった西洋のカテラリーは、フランス革命あたりの、18世紀頃に始めて使用が始まったのである。実にその差約1,000年の開きがあるのである。それまで彼らは手づかみで食べていたのである。この箸の巧緻運動の歴史がどれだけ我々日本人の脳を活性化・刺激し、且つ清潔観念を持たせてきたか、はかりしれないのである。

6 豊富で安全な水:日本では店に食べに入ったら、まず当たり前のようにコップ一杯の水またはお茶が自動的に出てくる。これは我々にとっては当たり前の事であるが、外国においてはまず「イラッシャイマセ」と水と言うサービスはないと考えて良い。頼んだらやっと持ってきてもらえるが、それは有料の事が多い。フランスなどではワインより水の値段の方が高いのである。しかも水道の蛇口から出る生水をそのまま安心して飲めるのは、ここ日本とハワイくらいのものである。外国は我々の慣れていない硬水の事が多いし、我々が耐性を持っていない細菌がいるため、がぶのみするとまず下痢をしてしまう。国によっては出された生野菜を食べても、洗った水が少し付いているだけで腹を壊してしまって、旅行が台無しになってしまう事すらある。日本の水道水はそのままで瓶詰めして飲料水として輸出できるほど清潔なのである。

7 清潔で快適な風呂:水の豊富な日本では大きな湯船とシャワーが別々に設置されてある。シャワーでまず粗洗いをした後、寒い冬がある為でもあろうが、ゆっくりとたっぷりのお湯につかる。そして湯船から出て石鹸で本洗いをしてシャワーでしっかりと洗い流してから、縞麗な体で又湯船につかり最後に駄目押しのシャワーをしてあがる。しかし外国の風呂では湯船のないのが基本である。しかもシャワーヘッドが頭の上に固定されている事が多い。これでは落ち着かないし、第一微妙なトコロが気に入ったように洗えていない。ホース付きのハンドシャワーがないと、大事なところが汚いままで終わってしまうのである。自分のような痔恐怖症には耐えられないのである。一方良いとこ湯船があったとしてもそれは大概シャワーと一体である。従って湯船にお湯をはってしまったら、尻や足も洗わないままダボンと湯船につかってしまわないといけない。そしてそのお湯が顔や頭にかかったら、大腸菌を舐めているようなものである。それにバスタブに石鹸を入れて泡だらけにしてゴシゴシジャブジャブするものだから、大抵は口や目に汚い泡水がかかる。よしや先にシャワーで粗洗いを済ませた後、湯船にお湯を張り始めたとしても、お湯がたまるまでに体は冷えるし、乾いてしまうし、その内眠たくなって酔いも覚めてしまうのである。なぜなら、このお湯ハリ水圧がやたらダサイことが多いのである。排水に至ってはあすの朝までかかるのかと思われるくらいトロイ事が多い。従って上がりがけに足先を洗おうと思っても、残った石鹸混じりの汚いお湯が邪魔をして、結局足の指の股はヌルヌルのまま湯上りするより他ない。かれらの足先は想像するだけで気持ちが悪い。しかも大体くっつくようにして便器が設置されてある。折角の湯上りに、ウンコやシッコが付いているかも知れない便器に脚が触れてしまい、何度気持ち悪い思いをした事か。それが5スターのホテルの常識である。日本では場末のビジネスホテルですらそんな事はまずない。

8 清潔なトイレ:ウォシュレットというのは世界に誇る日本の発明品である。最近ではトイレに入って出てくるまで、パンツを下ろすのと排泄とロールペーパーを使うこと以外何もしなくて良いトイレが多い。しかもそれがどんな陳腐な店のトイレにも大概設置されている。ちょっとした公園のトイレにしてもウォシュレットがあるか、ないにしてもおよそいやな匂いがしない。ところが外国ではウォシュレットにお目にかかる事はまずない。日本人が良く行くハワイでもDFSの特別ルーム以外置いていない。最高級ホテルにも無いし、ヨーロッパに至っては彼らはこの世にウォシュレットがあるという事実すら知らないのではなかろうか。外国ではAIDSが多いせいでもあろうが、我々日本人の清潔観念とオモテナシの精神によるところが大きいと思われる。

9 畳の文化:日本人の足は清潔である。それは靴を脱ぐ習慣によるものである。洋風生活では一日中靴を履いたままである。従って外人の足には水虫が多い。どんな綺麗な女優さんでもその足は水虫で臭いと考えて良いのである。日本では仕事中は靴を履きっぱなしではあるが、家に帰ると靴を脱いで生活する。従ってムレから開放される時間が長い。また玄関から上下・内外を区別しているので、室内は清潔である。幼い子供でも平気で手をついて這いずりまわって、その手を舐めても平気なのである。我々大人でも畳の上にゴロンとするとそれだけでホッとするのである。しかるに外国の家では靴のまま室内を移動するので、室内は路上と一緒である。他人の痰唾や動物の糞が泥土のついたまま家中に蔓延しているのである。家中黴菌だらけである。赤ん坊に至ってはそこを這いずり回るので、病気になって当たり前なのである。外国の乳児死亡率の高い原因の一つにそれがあるのではないかとさえ考えられる。

10 病気をしても安心:日本ほど医療の充実している国はない。しかもそれが非常に高度で安価なのである。日本は戦後の混乱期に否応なしに、世界に誇るべき皆保険制度を導入した。それにより被保険者は誰でも安心して高度で安価な医療を受けられるようになった。その証拠の一つとして最も顕著な例がかつてのブタインフルエンザ騒ぎである。あの流行時、世界の各国ではそれぞれ何千人何万人ずつの死者が出たが、日本では死者数が100人程度で済み、世界最低であった。それはとりもなおさず皆保険制度によるイージーアクセスと、安価な医療費によって全ての国民に医療がいき渡っている証拠なのである。然るに日本の医療費全体のGDPに対する割合は、先進諸国の中では最低の水準であることを忘れてはならない。それというのは取りも直さず、日本の医者達が世界のどこにもないような安い賃金で、日々国民に医療奉仕をしているからである事を、ジャーナリズムも含めて自覚・確認せねばなるまい。もし医療に於いてオリンピックがあるならば、日本は間違いなく毎年(4年毎)ダントツの金メダル獲得である。しかも日本の家庭医は従来何科の病気にでも対応し、窓口で患者にお薬を渡してきた。それがどれだけ病人の時間と労力を省き助けてきたことか。熱が高くて一歩でも歩きたくない病人に、「あっち行けこっち行け、また余計な金払って来い」はもっての他である。怒ってしまうか諦めて帰ってしまっても当然である。然るに最近医薬分業・専門医導入などという、西欧かぶれの煩わしい制度を粋がって吹聴する役人と、きれいごとを並べた権利獲得目的の何やら学会のせいで、日本の最高の医療が壊されようとしている現状は由々しき問題である。何でも外国の真似をしていたら良いという問題ではないのである。

11 腰の低い日本:日本のお辞儀の習慣は最高の作法である。自らの最も大事なコウベを、目線を下げて相手に対して差し出すという挨拶の仕方は、相手より自分を一段下に置いて、相手に敬意を表する方法としてこれ以上の方法はないであろう。しかもそれは謝罪の場合にも使える。一方握手などという方法は、決して相手に対しての警戒心を解いていない。あくまでも対等なのである。キスも同じであくまでも対等である。しかもいずれも不衛生である。西欧においてペストや結核などの伝染病を、どれだけこのキスと握手が媒介したか測り知れないのである。しかも我々日本人はすぐに「すいません(申し訳ない)」と謝る習慣がある。外国では「エクスキュウズミー(あら失礼)」くらいで、まず「アイムソリー(こっちが悪かった)」とは言わない。この習慣は戦後処理にも現れている。16世紀に始まった西欧列国の植民地政策は世界中でどれだけの残酷・悲劇を生んできたことか。しかも20世紀に至るまで延々と。20世紀になって文明開化でやっと目覚めた日本が、遅ればせながらおっとり刀で同じ事をしようとしたら、見事に叩きつぶされただけに過ぎないにも拘らず、いかにも世界で日本だけが悪い事をしてきたかのように非難を浴び、それに対して事あるごとに、「遺憾」とか「申し訳ない・・・」をいつまでも言い続けられるのは、我々が戦争に負けたからでもあろうが、基本は日本人のお辞儀の精神からくるものだと思われる。インカ帝国を滅ぼして金銀財宝をすべて持ち去り、挙句の果てに利用価値のなくなったアタワルパ王を絞め殺して中南米を植民地化したスペインが、ガンジー率いるインドをなかなか搾取の手から開放せず、アヘンで中国人を骨抜きにした挙句それをネタに香港を取ってしまったイギリスが、東南アジアの香辛料で莫大な富を得たオランダが、アフリカの多くの地域を支配したフランスが、宣教師を派遣しては言葉巧みに未開世界を蹂躙してきたポルトガルなどが、4世紀余りに渡る略奪と搾取の歴史に対し謝罪の一言でも発したであろうか? アメリカにしても黒人奴隷を動物のようにつかまえ、拉致してきたアフリカの国々に対して補償をしたであろうか? それに対してわが国日本はちょっと遅れて同じことをしようとしただけにも拘らず、すぐに潰されたおかげで謝り続けているのである。
しかし血を見るのが大好きな人間や、ずるく儲けた人間が我々日本人の中にもいた事は間違いない事実であって、彼らが犯してきた蛮行を繰り返さない為にも、我々日本人は他国にないような反省の工夫をしなくてはならない。それは口先だけの首相談話などではなく、我々の失敗談を真摯に認め、我々の次の世代にしっかりと伝えていく事である。それはとりもなおさず、毎年教科書に南京大虐殺・731部隊などと言った我々の侵略の歴史と汚点を堂々と記述し、二度とこのような愚かな事を繰り返さないように、若い世代に言い聞かせて行く事である。と同時に戦争が終わっているのも拘らずカラフトを奪われたり、スターリンの指示のもとシベリアなどに黒人奴隷のように30万人もの日本人が連れて行かれ、強制労働の結果その多くが死んだ事、明らかに国際条約違反である原爆を人体実験のように広島・長崎に落とされた事実も若い世代に伝え、人類は普遍的に残酷な一面があるという恐ろしさを若い子供達に教え、自覚させると言う教育が必要なのである。

12 温厚で潔い日本人:日本人は生来争い・戦いを好まない。それはいろんなところに現れている。例えば終身雇用と年功序列がそれである。その習慣は最近ではバカにされている傾向があるが、日本の国内だけならそれが永年の平和と安定をもたらしてきたのではないだろうか。外国と争わないのなら、競争をしないのなら無理にこれ以上アクセクしなくても良いのではないだろうか。また女性が基本的に家にいて、子供達を心身ともに健やかに育て上げていくという日本の古来の姿も大事なことであるし、大いに評価されるべき事ではないだろうか。(もっと工夫が必要) 男女同権と男女役割分担というのはともに必要なことではないだろうか。女性の持つ母性は我々男性には悔しくても、どんなにしても及ばないのである。嫁さんが反対しても無理やり私が引き取って命を助け一生懸命世話をしたワンチャンが、結局家内のほうを向いている事実に気がついた時、やはり女性には敵わないなと白幡をあげたのである。結局子供にずっとよりそうのは女性が適しているのである。どんなにしても我々男には子供を産む事は出来ないのであるからだ。男と女がいつも同じことをせよというのは、人間の動物としての特性を無視した意見なのだ。女が化粧を止められないのと同じように、男がゴリゴリでヒゲもじやらの脚を出してミニスカートをはく姿など想像もしたくない。男と女の特性をふまえた上での日本の従来の家庭のあり方は、安定した、競争の少ない平和な日本の終身雇用制度と併せて、日本人の温厚さを保ってきたのである。
日本の武道も穏やかで礼儀正しい日本人を表している。日本の武道は礼に始まり礼に終わる。試合が終わっても相手の陣地に挨拶に行き、お礼を言って帰ってくる競技など他国にはないのである。黙想をし、身を清めまさに色即是空・空即是色なのである。
その潔さの中で一つだけ合点のいかない問題がある。それは昭和天皇の戦争責任である。JR福知山線の事故では歴代社長の責任があれほど問われているのに、どうして当時の天皇およびその子孫に責任が問われないのか不思議でしかたがない。切腹の精神の日本の潔さの中でどうして先の天皇がのうのうと生きていたのか、不思議でならない。ヒトラーの方が日本人的だったのか? 終戦の時点でマッカーサーが天皇を死刑にしなかったのは、彼の失策だったのか、それとも愚かな日本人をまとめておくのにずる賢く利用しただけなのか? 先ほどの平成天皇のパラオ諸島慰霊訪問にしても、世間が騒ぐほど立派なものではないと思うのである。天皇が軍服一枚とスコップ一本、そしてペットボトル1~2本の水だけ持って、お付なしでペリリュウ島に上陸し、自分で地面に穴を掘って2~3日でも何も食べずサバイバルを自主的にしてきたのなら、餓死していった多くの犠牲者たちの苦労の何百分の一、何千分の一、何万分の一でも汲もうとしたのだなと思えるであろうが、綺麗に仕立てた巡洋艦の上で旨い食事に恵まれてプカプカ浮いて安眠してきたのでは、どんな綺麗事を言ってこようが、しらじらしいと思うのである。棒読みの原稿を読み間違い、「先の熾烈(しきれつ)な戦闘」などと読んでいたのは、黒子がそのまま見えてしまって思わず失笑してしまった。また、たったひとりの発言者もそう言った発言をしなかった事、ジャーナリズムが競ってあの訪問を美化し、飾り立てて報道した事が不思議であるし、怖ささえ感じるのである。これも日本人の温厚さの故か?

13 宗教の制約のない日本:日本ほど無宗教が許される国は他にないのではないだろうか。結婚する時は教会で式を挙げ、子供が生まれたら神社にお参りし、死んだら坊さんに拝んでもらって仏さんになる。変幻自在である。しかもその間殆ど制約がない。日曜の朝は自由だし、断食の期間もない。寄付をする必要もないし、酒も飲める。それでもって特にバチもあたらない。しかし何となく仏教の捨身飼虎の功徳精神が頭を支配している。右の頬を打たれたら左の頬どころか、全身を徹底的に完膚なきまで攻撃するというような事は決してしない。他人を蹴飛ばしてまで競争に勝とう等とは決してしない。
そして日本では宗教間の争いが全くない。我々が困った時の口癖として「神様・仏様」とよく言うが、考えてみれば奇妙なのである。神仏同居している。実際同じ敷地に両方が祭られているところさえある。結婚式も神前でも仏前でも教会でも何でも良いのである。どこも取り合い争いなど全くしないのである。宗教戦争はおろか、取り合い・縄張り争いなども全くないのである。それでもって政教分離はしっかりしている。外国では大統領の演説のあとによく「アーメン」を聞くが、日本で首相が「ナンマンダブ」でも言えばおおごとである。自由そのものである。多神教なのか?

14 教育:日本は明治以来義務教育を徹底させて、いち早く識字率を世界最高に持っていった。その結果国民のインテリジャンスは非常に高いものとなった。それにより我々は理路整然と物事を考え、的確に判断出来るようになった(筈である)。それにより我々の生活レベルは飛躍的に向上してきた。ただ英語教育は失敗の連続でいまだにその失敗を続けようとしている。言葉というものは苦痛の中でしゃべれるようになるものではない。しゃべらないと死ぬという状況ならいざしらず、しゃべらなくても食っていけるのなら、怒られながら誰がしゃべろうなどとしようか。少しでも間違っていたらすぐペケをつけて文句をつけたがる今の教え方なら、義務教育3年の英語授業を6年にしようが、8年にしようがたとえ10年にしようが、決して日本人は英語に口をわらない。ペケをつけるのではなく、ちょっとでもしゃべったらすかさずマルを与え、褒めて大騒ぎする事だ。試験などいらない。共通の教材などいらない。教師がその場・その日の話題を持ち出してくる事だ。そして高度なテクニックと英語力を要する教師の評価、例えばTOEIC・英検、父母を交えての人気投票などの成績を、教え子の参考成績として付記しておく。そうすることによって英語は音楽・絵画と同じように子供達に受け入れられ易くなるのである。英語を通して世界を見るのは楽しい。そう子供達に思ってもらえるように、そして日本が世界と仲良く交わって行ける様に教育関係者はもう一工夫すべきである。

15 美しい風土:日本の四季の移り変わりは素晴らしい。多少つらいこともあるが、それがまた「苦あれば楽あり」である。いま家の玄関ではツツジが満開で、庭では鯉のぼりが悠々と泳いでいる。四季折々の食材が楽しめ、しかも流通の発達によって遠くのものでも新鮮なままで手にはいる。食べ物は比較的に安いし例外を除いて餓死することはない。社会保障は行き届き過ぎて、ずるく保障費を受ける事だって出来るほどである。戦後いたコジキなど今時目にもしない。ホームレスだって主義をもってしている事が多い。以前夏の暑い日にホームレスの人に声をかけて、「施設があるから涼しい施設に連れてってあげましょうか?」と言ったら、「あんな堅苦しいとこなんか行きたくない。ほっといてくれ」と追い返された。生きようとしたらどうしてでも食って行ける世の中のようである。冬の受験戦争は辛いが、春の桜入学はこの上なく楽しい。9月入学など外国のマネをして実施することなどない。我々は日本を愛し、大事にし、楽しく仲良く生きていけば良いのである。

おわり


前略 お元気そうでなりよりです。

当方は2月に捨てられっこのリッキーが、9月には甘える為だけに生まれてきたミルキーが去っていき、天涯孤独になってしまいました。おまけに毎日のように「育じい」をしていた長女の2人息子が一家でドイツに引っ越してしまい、クリニックと道場以外することがありません。

さて今年の世相を代表する漢字は「税」だそうです。ピンとこないと言うか、全然あたってないと言うか。むしろ今年も昨年と同じく「偽」が適当だったのではないでしょうか。サムラゴウチを筆頭に、我が地元の号泣議員、ひいては結局「STAP」細胞は存在しませんでした。

海外に目を向けるとアメリカの化けの皮はぎ。黒人をトドメを刺すまで撃ち殺そうが、寄ってたかって刺青腕で絞め殺そうが、まるで犬猫を始末した時の如く起訴もされず裁判にすらならないなど、話にならないとはこの事であろう。一件目のファーガソンの場合は確かに「死人に口なし」でどこにも証拠はない。しかし日本なら警官が一発発砲しただけで新聞沙汰である。それが10発以上など殺意、あるいは憎しみ以外なにものでもない。二件目のニューヨークでは映像と音声まで残っているにも拘らず数の力でお蔵入りなど、正義も糞もない。これが世界の中心都市たるニューヨークで起きた事なのだ。所詮ノアの方舟にはイヌやネコなど動物は乗せてもらっていても、われわれ黄色人も黒人も乗せてもらえなかったのだ。我々は動物以下なのか。これでは自称世界の警察官なるアメリカは中国や北朝鮮の人権問題に口を差し挟むことなど到底できないであろう。それどころか「イスラム国」なるテロ集団にすら偉そうに出来ない筈である。

年末になってやっと少しだけ明るいニュースが飛び込んできた。そして皆が浮かれている中で中村教授の「ただの金属ですよ」がなんとすがすがしかったが。所詮ノーベル賞など世界に最大の不幸をもたらしたダイナマイトからきたものだからだ。

今年最後の「偽」のトドメは「自民圧勝」の選挙であった。過去最低の得票数しか取れなかった自民党が「圧勝」したのだ。みんな今の政治を見放しているだけだというのに。GDPの伸びはどうもがいても1%なのに、不動産・金融資産の利益率は5%という事は、我々アリンコ族がパン牛乳を買う金の伸びが年間1の間に、株・土地持ちキリギリス貴族は年間伸び5のマネーゲームをしているという訳だ。フランス革命以前と何ら変わりはない。これでは若者のやる気はうせていて当たり前だ。日米ともに「頑張れば将来成功できる」という神話を信じている者の率が40%くらいというのも納得のいく話である。大本営発表たるアベノミクスなど小手先の金融政策だ。所詮明るい将来はない。今必要なのはアリンコ族にやる気を起こさせる思想改革なのだ。キリギリスを叩き出す事だ。

こういう中で我々武道家は流行に流されず、と言って周りをしっかりと観察しながら、こつこつと中村教授のように前に進むことが必要であろう。

また会おう。

2014年12月17日 八杉 誠

草々


あなたはワンチャンとどう接しますか?

「自分はずっと以前から多くのワンチャンと暮らしてきた。」

この一行に既に私のワンチャンに対する気持ちがふんだんに盛り込まれている。

まず自分はワンチャンのことを決して「イヌ」とは言わない。イヌという言葉は差別的であり、いかにもワンを見下しているのである。また「飼っている」とも言わない。なぜなら「飼う」というのは、こちらがワンにエサを与えているだけという、一方的な上下関係を意味するからである。とんでもない、こちらはワンチャン達からどれだけの愛を受け取ったであろうか。どんな人間からも受け取れなかった、真に純粋な無償の愛をどれだけ受け取ってきたであろうか。朝夕あげる「ごはん」の何倍何十倍何百倍何千万倍のお返しをいただいてきたのである。それを「飼う」などと誰が言えようか。むしろこちらが多くのものを受け取りながら「一緒に暮らして」きたのである。

現在たった一人(一匹などという差別語は我が家では禁句。人権を認めて一人、二人と呼ぶ)になったミルキーはいまや8歳の老セイントバーナードで、そろそろ足元がおぼつかなくなり、「お座り、待て」も彼女にとっては難儀なので、容器に入れたご飯はすぐ「よし食べて食べて」と言ってしまう次第である。

ところが先日ある患者さんと雑談をしていた時である。その患者さんは私のワンの扱いは間違っていると言い出したのである。その人によると「犬は犬、人間は人間」だというのである。必ずイヌの上に飼い主を置かなくてはいけないと言うのである。確かに物理的に言うとそうかも知れない。しかし自分はなぜか何に対してでもそのような支配的な態度を取れないのである。「犬」に対してそのような考え方の出来る人は他人に対しても同じように支配的になるのではないかと危倶するのである。

自分は他人から支配されるのも指図されるのも大嫌いなのである。従って自分も他人を支配しないし指図もしないのである。また身動きが出来なくなるような集団に入るのも大嫌いである。根っからの自由人なのである。これは私の大学時代のある恩師の「男子たるもの徒党を組むな」という教えでもある。

私のそのような心理状態は職場においてでもそうである。私は職員に対して決して支配的な態度を取れないのである。それは私の医学的知識が彼女達より劣っているからではない。私の医学的知識の豊富さと経験の多さ、決断力の早さ真面目さは彼女たちは日常診療を通じて充分知り尽くしてくれているのである。しかし自分が一番偉いと自負する人は、もうそれ以上成長出来ないと私は思うのである。彼女達からでも何か学びたい、何かを得たいと常に思っているのである。実際自分が偉そうにしてしまっていると、何かを聞きたい時でも簡単に「教えて」と言いにくいではないか。「たわわに実った麦は穂を垂れる」のである。

また自分が指導している空手道場においてでもそうである。弟子達に対して自分は決して支配的な態度は取らない。指導しながらでも何か彼らから得るものがないか、常に探し続けているのである。自分が一番強い、一番うまいと考えてしまっては、もうそれ以上強くもうまくもなれない。またいつでも自分が上にいないといけないと考える人間は常に他人との間に不安を抱き、テンションとストレスの中からいさかいを生み出してしまうのである。

何にせよ自分はうちの子達に怒った事も、まして叩いたりした事等全くない。どんなにしても自分より早く死んでしまうであろうあの子たちに、どうしてきつく当たれようか。毎日家に帰ると誰よりもまっさきに走ってきては、オシッコをたらさんばかりにキュウキュウキュンキュンと言って喜んでなめ回してくれる我が子は、ある意味実の子達より大事にしてやらなくてはならないのである。人間の子なら虐待や捨て子をしても、社会が必ず救済の手を差し伸べるが、ワン達は自分が守ってやらなくては誰も守ってやってくれないのである。親不幸と言われるかも知れないが、親の命日はうろ覚えだが、3人のワン子達の命日はきっちり暗記している。親にはおよそ線香を揚げたりはしないが、ワン子達の仏壇には毎日4回ずつ線香を揚げ、水も毎日欠かさず換えてその都度亡きあの子達に話しかけているのである。親を無条件に信じ、無条件に従い、無条件に愛する事の為だけに生まれてきてくれたこの子達の為なら、何でもしてやらないと思うのは当然なのではないだろうか。妻や実の子でも一度や二度ならず、私を疑い、または逆らってきたのである。

全ての人がワンに対するような優しい心を持ち、互いに対する無欲な奉仕精神を持ってくれるなら、この世は平和で真の豊かさを味わえると思うのであります。出来れば墓はワンたちと一緒に入りたいのですが、どなたか良い方法を教えていただけませんでしょうか。


法はすべからく守るべし? あるうら若い警官とのやり取りから

先日の午後のことであった。出かけ先からクリニックに向かって自転車で走っていた。

突然後ろから「もしもし」と声をかけられた。振り向くとそこにはいつの間に尾行されていたのかやはり自転車に乗った若い警官が立っていた。

「何ですか」と言う私の問いに「鍵は付いてますか?」と警官尋問

八杉(Y)「付いてます」。その警官(K)前に回って「前鍵ですか?」と納得。

それで終われば良いのに更に(K)「防犯登録してありますか?」。むかっときたが(Y)「ほらここです」

それを見て(K)「この自転車どうされたんですか?」。(Y)もらったと嘘を言えば良いのに正直に説明を始める。

「実は私は3つのビルのオーナーなんです。借家人が退去する時に動かない洗濯機、冷えない冷蔵庫、衛星放送の映らないテレビ、ダンボールに入ったがらくたなどいっぱい置いたままよく姿を消すんです。これもその一つで、直しながら私が乗っているんです。」するとその警官いかにも上から目線で
「それ困るんですわ」 八杉むかっとして「どう困るんですか」

(K)「持ち主に返してもらわんと」 (Y)「住所も電話も分らんのに返せませんよ。返せと言われてもこっちが困ります。おたくが防犯登録から持ち主を探して下さいよ」

(K)「それは私の仕事と違います。」 (Y)「じゃあどうせーと言うんですか?」

(K)「とにかく乗ってってもらったら困ります。」(Y)怒って「じゃあこの自転車ここに置いていくわ」

(K)「それも困ります。不法投棄です。」(Y)怒鳴り声で「じゃあどうせーと言うんや。困るのはこっちの方や」

(K)「とにかく法律は守ってもらわんと」(Y)開き直って「大体法律は何の為にあるんや?法律は他人の物を盗ったり、他人を傷つけたり、殺したりしない為にあるんと違うんか。世の中に平和と幸せをもたらずべき、法の根本精神と目的を忘れんときや。誰にも迷惑かけていない自分のようなもんが何であんたのようなもんに文句をつけられなあかんねん?それとも法律はあんたのような石頭の意地悪役人が、形だけ守らせようとして一般人をいじめ、迷惑をかけたり不幸に陥れる為にあるんか?それがあんたらの仕事なんか?」

(K)「それでも守ってもらわんといかんのですわ」(Y)遂に切れて「大体法律を忠実に守ってばかりおったらあんたらのような若いもんはおろか、今いる日本人は存在してなかったんを分かってるか?あんたら青二才は知らんやろうが、戦後の食糧難の時に食管法(食糧管理法1995年やっと廃止)が定められて、日本人は政府配給米しか食べたらあかんかったんやで。しかしその量があまりにも少ない為に警官も含めみんな闇米いう脱法米を食べててそれが当たり前やったんやで。皆それを手に入れんと誰も生きていかれへんかったんや。実際忠実に法律を守って配給米だけで暮らしていて、栄養失調で死んでもた有名な裁判官もいるけどな。日本人は長い間法律を犯して闇米を食べてたらか生き延びられたわけで、法律を犯してなかったらあんたのオカン・オトウも死んでたか、少なくともあんたは今存在してなかったんやで。それと現在でもパトカーは制限速度をきっちり守ってるか?ついて走ってみ。制限40キロのとこ60、60のとこ80でパトライトもつけず、サイレンも鳴らさず走ってるの何ぼでもあるで。こっちが取り締まれる立場やったらなんぼでも捕まえてやれるで。法律いうのは原則であってそれを上手に運用するんが賢い人間のすべき事ちゃうか。頭ごなしに法律ばかり持ち出して一般人を困らせるのは、法律によって縛られなあかんような、つまらーーーん無能人、悪人と変わらんのとちゃうか?」

「・・・・」若い警官無言。

(Y)「自分はクリニックしてるけど、こんなとこであんたらと口論してたら、通り過ぎる患者さんが、八杉は何悪い事したんやと思いはるから、すぐそこの医院まで来て」

八杉そのまま自転車に乗りその場を去るも、警官追跡して来ず。

所詮法律なんて「憲法違反」で選ばれた議員達が決めたもの。あるいは○○知事のように5000万円もらっても人前で堂々と見え透いた嘘をつき、世の中をバカにしているようなお偉方の決めた事。アナーキストではないが「うぬがごとき者にとやかく言われたく無いわい。こっちはちゃんと考えた上で良識をもって行動するわい。」と言いたい。無思考・無批判・無抵抗・無感情・無慈悲が良いのでしょうか?こんな事をつぶやいている人間は、どこかの国のように徐々に粛清されてしまうのでしょうか。


前略 吉●理●様

K1の没落とともに、破門たら除名たら前科たら、目を背けたくなるような言葉が、やけにまいまいしている我が道場ですが、君にはお元気な御様子、安心しております。

それにしても今の人間はどうしてこうも自分の事しか考えないのでしょう。アペノミクス?ふざけんじゃない。

株高?我々株など買えない広汎な一般平民にはとんと関係ない別世界の話です。株遊び又は大もうけをしているような輩は、その金で我々のように大根やニンジンを買うわけではないでしょう。汗ひとつかかず余剰の金で貴族振る舞いをしているだけのように見えてしかたがないのです。

円安?誰が輸出するのですか?中小の企業はおよそ高騰した材料を輸入するだけでしょう。堂々と輸出して円安の恩恵を受けるのはトヨタのような一部の大企業だけでしょう。貧富の差が開くだけでしょう。

それでもって「大本営」は景気が良くなったとの自己判断で消費税を上げようとしています。消費税持ち出しの我々医療従事者にとっては死活問題です。

世の中原発反対さえ唱えていれば「先進的」と見られるようです。しかし果たしてそうでしょうか?確かに原発は絶対安全という神話は崩れました。しかしいろんな事が改善され、残った危険はごく僅かでしょう。ではそのごく僅かな危険を恐れて化石燃料を使ったとしたら何が残るでしょうか。それは「僅か」どころか100年200年先には「確実」に地球温暖化が進行し、環境破壊・食糧難、それに伴う争いが起き、イスラムあたりがきっと「核」を使用するでしょう。そうなると福島から避難するどころか、人類全体がどこにも避難できなくなるでしょう。これは「僅かな危険」ではなく、ほぼ100パーセント確実な悲劇なのです。

原発反対をお題目のように叫んでいる人たちは一体後世の人たちの事を考えてやっているのでしょうか?余りにも利己主義に走っているのではないでしょうか。それよりも黙って身近な省エネを自他ともに実践するほうが大事なのではないでしょうか。

まるで沢穂希状態でメマイがしてしょうがない今日このごろ。知らぬまに6人の孫持ち(もうすぐ7人)になってしまう私です。あの子たちの将来が気がかりですが、恐らく何も出来ずに終わってしまうのでしょうね。くわぱらくわぱら。

草々

2013年7月11日 八杉 誠


あさましい烏合の衆   尖閣・竹島問題をめぐって

尖閣諸島・竹島はいずれも日本のものではない。しかし中国・韓国のものでもない。それらは永年にわたって神または自然が作り上げた、われわれ全人類へのプレゼントなのである。そしてついこのあいだまで日本も中国も韓国もまるで関心を払っていなかったのみならず、所有権も主張していなかったのである。それが僅かな石油が出てきたというだけで途端に醜い分捕り合戦を繰り広げだしたのである。

自分はこのバカ騒ぎを見ていて愚かな一族の遺産相続争いを思い出す。すなわち親が生きている間は喧嘩もせずにいたのが、親が死んで財産が残ったのが分かった途端に醜い取り合いの争いを始めるという、よくあるシナリオである。自分は何の努力もせずに親の力で貯まった物を欲しがるという、実にあさましい醜い姿なのである。

本来一部のつまらない国民が島を欲しがって騒いでも、双方の争いが大きくならないように、国民をなだめ平和的解決を図るのが賢い指導者の姿ではないか。どうしても境界線が必要ならば島の真ん中に線でも引けばすむ話である。ところが国内の人気取りに走って国民をたきつけるような事をしているのが各国政治家の現状である。そのような国のトップには信頼して付いていくに耐えないのである。

そもそも島にせよ金鉱にせよ石油にせよ、所詮誰も努力して作り上げたものではない。以前は植民地政策のように列強がこぞって地球資源を手に入れようとしたが、今やこのグローバル時代。すべての資源は全人類で共有するのが新人類のすべき事ではないだろうか。社会主義ならぬ、世界主義とでも言うか。

あるいは二次大戦中日本軍は韓国・中国に多大な迷惑をかけた事が尾を引いているのかも知れない。確かに日本の教科書にその過ちを殆ど載せていないのは反省が足りないのかもしれない。しかしだからといって、戦後処理がすべての国の立会いのもと終わっている今、個々の事例について改めて補償あるいは代償を払えというのは、余りにも弱い者いじめに過ぎない。アフリカは奴隷補償をアメリカに求めるだろうか。植民地時代の補償を被植民地は求めるであろうか。広島・長崎の被害補償を現地の人は叫んでいるだろうか。シベリア抑留の補償が話題に上ったことがあるであろうか。

今の時代全世界の人類が和と協調の下、仲良く暮らしていくのがインターネット時代の新人類の歩むべき道なのではないだろうか。その為にも各国民を正しい方向に導いていける賢い指導者が欲しいものである。


瓦礫(ガレキ)受け入れ拒否に愕然

震災直後に、東北の瓦礫受け入れに名乗りを上げていた自治体は400を超えていたが、ここにきてそれがたったの6件に減ったという。拒否の第一の理由は放射能汚染に対する嫌悪だという。

大体エコだとかクリーンエネルギーだとか言って、湯水のように電気を使い、原子力による電気を我も我もと求め続けてきたのは一体誰だったと言うのだ。東電が、はたまた関電が電気を押し売りしに来たとでも言うのか。とりもなおさず我々日本の国民全体の要望と仕業ではなかったか。勿論原発を担当していた学者・技術者・職員の読みの浅さもあったでだろう。しかしあのような前代未聞の事態を誰が正確に予言出来ていたであろうか。後出しで偉そうにいろいろ批判している口ばかりの人間もいるが、ではそんな輩が今迄に一度も間違った判断をしたことがなかったと、胸を張って断言できるというのか。我々日本人全体が求めた電力であり、我々全体が原発を作らせたのであり、我々全体があのような事故を誘発したのである。それなのに瓦礫を東北の人達だけに押し付けるのはどうか。

もう一つ、既に多くの風評被害が出ているが、放射能を過剰なまでに怖がり過ぎいるのではないだろうか。広島・長崎に原爆が落とされた時、立ち入り禁止区域などなかった。翌日から大勢の人達が被災地に(自由に)出入りした。だからといって広島・長崎に出入りした人間全員が癌になっているわけではないのではないか。また、中国が核実験をしていたころ、線量測定もせずに平気で野菜や肉を食べてしまっていた。それらについては、今ほど騒がなかった。多くの人が憧れる宇宙飛行士は莫大な宇宙線(放射線)を浴びているし、先日行われた天皇陛下の手術では、カテーテル検査をしバイパスを入れた医師達も、数分間肩から先にレントゲンを浴びている。その道の専門家などは一日に何度も検査をし、年間何時間、一生通じて何千時間、人によっては何万時間とレントゲンを浴びているのである。患児と一緒に時々レントゲン室に入って放射線を浴びる我々小児科医も毎回被爆している。だからといって飛行士や医者に癌が多いという統計はない。

確かに子供は大人に比べてレントゲン感受性はやや高いし、我が子を心配する親の気持ちも非常によく解る。しかし東北地方にも子供は沢山いる。既に、地震、津波で大きな被害を被った人々に、更に困難を背負い込ませるのではなく、被害に遭わなかった我々も責任分担するのが同朋としての義務ではないだろうか。多量に電気の恩恵を受けている大都市などから、なぜ率先して問題を引き受けようという声が上がらないのだろうか。利用者負担の原則からすれば、原発なども電気を大量に使用する大都市エリアに建設するのが公平だったのかもしれない。(非現実的ではあるが)。

ただ、行政による瓦礫受け入れ説明会に強引に押し入り「反対」を叫んでいるばかりでは、何の解決にもならない。多くの国民が、純粋な気持ちで行った献金を有効に活用するためにも国民がみんなで知恵を出し合うことが必要なのではないか。他人の為に黙々と汗を流すボランティアさんも沢山おられ、本当に頭が下がる。他人事として捉えるのではなく、我々日本人の仲間が本当にピンチになっているとの認識を多くの人が分かち合うべきだと思う。


ダマラさんの法要に参列して

日本人の奥さんと結婚して阿倍野区で半年前にネパール料理店を開店した、ビシュヌ・プラサド・ダマラさんが、去る1月16日未明阿倍野区の路上で4人の日本人に何のゆわれもなく突然襲われ、逃げ惑った挙句撲殺されてしまった。原因は人種差別だと言われている。

逃げ惑うダマラさんに大勢で殴りかかり、逃げようとよろけるダマラさんに更に殴る蹴るの暴行を繰り返し、しまいに自転車まで投げつけて、起き上がれないように迄する一連の行為は防犯カメラに収められ、繰り返しテレビ・新聞で報道された。事件を知った浄土宗の僧侶達はダマラさんの冥福を祈って2月25日に法善寺で法要を営んだ。日本に溶け込もうと努力していたダマラさんに対して、4人が行った暴力(犯罪)を私は同じ日本人としてこの上なく恥ずかしく思い、大きな謝罪の念にかられて、いたたまれずに法要に参列した。

人種や文化の違い、男女や生まれつきの姿形で差別するというのは、同じ人間として絶対に許されない行為である。つまり他人を差別することにより、自らの人格の低さを世間に露呈していることに気付かないのである。まして、差別だけでなく、エスカレートして他人の一生を奪う殺人は、絶対に許されない行為である。特に今回のような動機(人種差別)による殺人については、厳しく裁かれるべきだと思う。

さて当日は同行してくれた当院の婦長と一緒に道頓堀から法善寺横町に雨上がりの道を歩いて行った。法善寺に着くと、通りの賑わいとは裏腹に法要の参列者は少なく、とても寂しいものであった。表通りには、雨の上がるのを待っていた若者達が大勢繰り出してきて、春を謳歌していた。大量に報道がなされたので、多くの人が私と同じように関心を持ち、お参りに来ることを多少期待していたのだが、今の日本人にそれを望む方が無理だったのかもしれない。目の前で、大騒ぎしながら遊んでいる多くの若者を見つめながら、本当にこれからの日本は大丈夫なのかと一抹の不安を覚えるのであった。(犯人だけでなく、近くで不幸な出来事があっても自分には関係ないと、見て見ぬふりをする今の日本人も同様に罪がないとは言えないのではないか・・・・。)