「千里中央」の歴史(その6)

千里中央大阪府 豊中市・千里ニュータウン)、心療内科 精神科「医療法人秀明会 杉浦こころのクリニック」の杉浦です。
今回は『「千里中央」の歴史』の6回目です。引き続き、千里中央について詳しく触れたいと思います。
【続き→】■千里中央(新千里東町)の開発計画(千里ニュータウン計画 J地区)
千里丘陵は標高60メートルから100メートルの高低差の大きい丘陵地で、ほぼ中央を南北方向に大きい尾根が走っています。全体は北高南低の地勢で、農業用水地や大きい二つの池と数個の小池があります。樹木は竹林が多く、松林、柿木も散在しています。このJ地区の西側を占める地区は、千里ニュータウン全域での中心地でもあり、さらに将来、大阪地方全体での業務地区センターといえるように設計されています。このため、この地区の住区公園は、住区から西のほうに偏るが、池や自然を大幅に残す自然公園として上述の地区中心と住宅地とを分離するため、特に緑地を集約した形で計画しました。また、大地区中心に隣接する住区として千里ニュータウンの中でも最も高密度な計画でセットされました。
この地区で特に強調しなければならないことは、歩車分離が徹底的に考慮されたことです。そして地区外との連絡も含めて七つの歩道橋を設け、専用歩道ものパターン化を一応完全な形で確立したのです。(「千里ニュータウンの建設」(昭和45年3月 大阪府発行)より引用)
千里千里丘陵)開発への胎動 建設の背景と建設決定の前夜
昭和31年(1956年)~昭和32年(1957年) 神武景気時代の深刻な住宅難〗
大阪に「新しい住宅都市」(後の千里ニュータウン)を建設しようという動きが出たのは昭和30年代に入ってすぐのころです。
そのころの日本は、戦後の混乱から立ち上がり「神武以来の好景気」(神武景気・昭和29年~31年)にわいているときでありました。
しかし深刻なのは大阪の住宅難でした。出生ラッシュに加え、大阪に職を求め地方からやってくる人たちで人口は急激に増加。その流入人口は年間20万人におよび、加えて早くも核家族化がすすみはじめたこともあって、住宅需要は増すばかりでした。
昭和30年の調査では、大阪全体の住宅戸数はほぼ戦前なみに戻ってはいたが、なお18万戸が不足。特に低所得者に住宅困窮者が多く、これらの人々のために、どうしても低家賃の公的住宅を提供しなければならない事情となっていました。
大阪府としても、国の施策に沿いながら府営住宅を年間3千戸程度はコンスタントに建設するシステムを確立していたが、建てても建てても追いつかぬ状態が続いていました。
以上、千里中央駅直結・千里セルシー3階・豊中市、心療内科「杉浦こころのクリニック」の杉浦でした。






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