「千里中央」の歴史(その8)

千里中央大阪府 豊中市・千里ニュータウン)、心療内科 精神科「医療法人秀明会 杉浦こころのクリニック」の杉浦です。
今回は『「千里中央」の歴史』の8回目です。引き続き、千里中央について詳しく触れたいと思います。
【続き→】〖千里ニュータウン建設決定のころ 昭和33年(1958年)~昭和34年(1959年) 開発前の姿〗
千里ニュータウンの建設が正式に決定したのは、昭和33年(1958年)5月。その年の秋からは用地買収が始まりました。
そして、翌34年(1959年)4月10日には、開発計画案が公表されました。その日はちょうど皇太子殿下(現在の天皇陛下)ご成婚の日でもありました。
この公表を機に地価がつり上がりはじめ、用地買収は次第に難しくなっていきました。折から日本経済は「神武景気」に続く「岩戸景気」(昭和33年~36年)に入っていました。
そんな中、現地調査と用地買収が進められ、マスタープランの検討も始まりました。
そのころの千里千里丘陵)はどんな姿だったのでしょうか。
■樹林に覆われた数群の千里丘陵
「当時の風景は、樹林に覆われた数群の千里丘陵と、その間に谷間があるだけで、昭和9年(1934年)に移転してきた大阪市立弘済院(古江台)や、在来からあった山田や上新田などの集落を除けば、ほとんど人影も見当たらない寂しい土地でした。
わずか数条の山道は、ジープがやっと通れるという状態で、ところどころで山バトやウサギ、キジなどがみられ、ウグイスも聞かれました。その一方で、マムシが飛び出してきたりするのも珍しくはありませんでした」
当初から千里(千里丘陵)の開発事業に携わってきた方によると、当時の模様をこのように記しています。
現在の古江台の中ほどには、10戸ばかりの農家があったが、長い間、電気が通ってなかったといいます。
■映画のロケ地だった!
電柱もほとんどないこのような千里丘陵の風景は大阪府下でも珍しかったので、時代劇のロケ地としてずいぶん重宝されていたようです。
先ほどの方の記述は続きます。
「ジープで現地調査に赴くようになってからでも、時代劇のロケに出くわすことが何度かありました。
しばしジープを止めて、市川右太衛門さんの派手な所作に驚いたり、撮影の合間に近くの土手の上で若いお姫様役などの女優さんを周囲に集めて、なにか楽しそうに時間をつぶしていた三益愛子さんのしぐさなどに、なんとなく納得しながら、その場を離れて次の調査へと急いだものでした」
後に、造成工事が南から北へと移って行ってもなお、工事用の小屋にカヤ(茅)をかぶせるなどしながら、しばらくはこのようなロケが続けられていたといいます。
■奉行所となった元庄屋屋敷と長屋門
映画ロケといえば、上新田の元庄屋屋敷もそうでした。先年、長屋門などは近くに改築移転したため以前ほどの面影はなくなったが、戦後は盛んに映画のロケが行われたところです。
この長屋門は、奉行所を思わせる雰囲気。旧鍋島藩のものといわれる立派なもので、人力車やかつぎ籠(かご)もあったといいます。さらに中庭には年貢米を計った石だたみも残されていました。
夏目俊二の「紫頭巾」や頭師孝雄の「ピカ助捕物帳」もこの長屋門が舞台。小林桂樹や団玲子も撮影でやってきたといいます。
上新田の元庄屋さんは祖父の時代に、現在の千里中央あたりの地主さんでもありました。今の千里セルシーあたりは大きな炭焼き場だったと元庄屋さんはいつか語っていたものです。
山田東の元庄屋屋敷もロケの舞台になりました。こちらも大変立派な長屋門。山田川に沿った街道筋は、今もその風情を、残しています。たんぼはよく水をからしたといいます。
山は山田、佐井寺、上新田、下新田、熊野の農家も所有、明治時代からモモづくりをしてきたが、大正の初めに害虫の大発生でモモがほとんど破滅状態になりました。
米もモモも不作、困った農民たちは発想を転換し、タケノコづくりに精を出すようになったのです。
開発直前の千里(千里丘陵)は、したがって随所に竹やぶが広がっていたのです。
以上、千里中央駅直結・千里セルシー3階・豊中市、心療内科「杉浦こころのクリニック」の杉浦でした。






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