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「千里中央」の歴史(その10)

千里中央大阪府 豊中市・千里ニュータウン)、心療内科 精神科「医療法人秀明会 杉浦こころのクリニック」の杉浦です。
今回は『「千里中央」の歴史』の10回目です。引き続き、千里中央について詳しく触れたいと思います。
【続き→】“証言”の一部をかいつまんでもう少し紹介してみましょう。
【峠の茶屋】
桜並木ですっかり有名の千里中央筋は、以前から浪速と西国街道・勝尾寺を結ぶ道で、当時としてこのあたり唯一の幹線でした。
「西角瀬」(現在の新千里北町2丁目)の北、現在の蓮間配水場付近はこのあたりの最高峰で、大きな一本松があり、その下に峠の茶屋がありました。特に箕面の護摩の日には、ここでとれるモモやハタンキョウなどが並べられたこともあったといいます。
峠の下(北側)は西国街道。参勤交代の大名行列のにぎわいも、きっとこの茶屋からながめられたのでしょう。
【真言密教の坊と観音】
北千里駅南一帯(古江台4丁目と藤白台3丁目)は、昔「千手」と呼ばれていました。真言宗円照寺(山田東三丁目)の奥の院が、現在の千里北公園はすま池の周辺にまで広がっていたが、宿坊には「千手観音」(円照寺のご本尊)がまつられていたことから、そのまま地名になったといいます。
奥の院は現在の佐竹台4丁目にもあったようで、小字「入学(にんがく・人学の間違いかもしれない?)」が示すように、僧侶の学問の場だったと伝えています。
奥の院は応仁の乱(1467年)で焼かれるが、後に、池の底からやけどをした観音さまが現れ、水ききんを救ったという伝説も残されています。
【津雲の尼塚】
津雲台1・3丁目にかけての旧小字は「尼塚」。現在の新千里病院あたりには行基が建立したという紫雲山永安寺があったからといいます。
後に尼寺となったが、織田信長による戦火で焼失したため、山田東3丁目に移ったといいます。鳥獣の天井画(府文化財)で名高い紫雲寺の前身です。
この尼塚から津雲と呼ばれた山(津雲台3丁目・5丁目)は、戦前は9ホールのゴルフ場で、キャディーのアルバイトをした農民もいたというから、山田や上新田の人はハイカラでした。
■八つの城と戦国時代
戦国時代、千里千里丘陵)には八つの城がありました。吹田城、山田城、佐井寺城、郡山城、刀根山城、原田城、粟生城、三宅城です。
城といっても、山城あるいは砦(とりで)のようなものだったらしいが、摂津は京の都に近い要所だけにこれらの城も激動に揺れました。
特に歴史的に有名なのは刀根山城。現在の刀根山御坊にあった城で、北摂の守護大名荒木村重(むらしげ)を滅ぼそうとした織田信長軍の前線基地になったところです。
村重は信長に引き立てられた男だが、信長が石山本願寺攻めに11年かけているとき、敵毛利軍に手を焼くのは、村重が内通を計っているからだと疑い、伊丹の有岡城(村重が城主)を攻撃したといわれています。天正7年のことです。
刀根山城にかけつけたのは高槻城主高山右近ら。結果は村重が逃走、残った家族と一族郎党の妻子らが極刑ざん殺されたという悲劇に終わるが、千里(千里丘陵)の多くのお寺も、信長によってこのころ焼かれています。
以上、千里中央駅直結・千里セルシー3階・豊中市、心療内科「杉浦こころのクリニック」の杉浦でした。


「千里中央」の歴史(その9)

千里中央大阪府 豊中市・千里ニュータウン)、心療内科 精神科「医療法人秀明会 杉浦こころのクリニック」の杉浦です。
今回は『「千里中央」の歴史』の9回目です。引き続き、千里中央について詳しく触れたいと思います。
【続き→】〖千里ニュータウン建設決定のころ(下) 千里慕情 ユニークな旧小字の地名〗
現在の千里ニュータウン地域は、昔は「寝山」または「外山」と呼ばれる平凡な雑木林の山でした。「津雲」は「九十九(つくも)」が元の地名であることからもわかるように、いくつも谷間のあるアップダウンのある、千里丘陵というよりむしろ山でした。
「外山」は、山田・佐井寺・下新田の各村(後の吹田市)と、熊野田・上新田の各村(後の豊中市)にまたがっていたが、さらに細かく、およそ100ほどの地名(小字)がありました。「だんご図」がそれです。
藤白、津雲、古江という地名も見えます。現在の町名はきっとそこからとったのでしょう。池の名前は今も昔も変わらないものが多いです。
驚きは、中央左端の鬼ヶ谷という地名。現在の新千里西町2丁目から千里インターチェンジをはさみ、新千里南町1丁目に至る地域に該当します。
豊中市立西丘小学校や婦人会館あたりから東南斜面にかけてというわけだが、そんなに恐ろしいところだったのでしょうか。古い写真を見ると絶壁の岩場があり、まさに「鬼」が出没するような雰囲気もなくはないです。
かつて青山台に住んでおられた一主婦の方が、昭和51年(1976年)に、「千里ニュータウンむかしのはなし」という冊子(B5判40ページ)を自費出版しました。千里の近辺に住む古老を取材して回って聞いた話をまとめたものです。
それによると、さきの鬼ヶ谷には「たんつく」という三段になった池があり、山ゆりが咲き、ホタルが飛び交っていたが、その奥は恐ろしくて一人ではとても行けるようなところではなかったといいます。
■おじいちゃんおばあちゃんのはなし
冊子はさらに、キツネやタヌキに化かされたというどこにでもあった民話伝承が紹介されているが、千里の山にはたくさんのタヌキが住み、勇敢な人はタヌキ穴を探して捕獲し、「タヌキ汁」に舌づつみを打ったといいます。また、大きな池には、たいてい竜または大蛇が住んでいたという伝説を残しています。
以上、千里中央駅直結・千里セルシー3階・豊中市、心療内科「杉浦こころのクリニック」の杉浦でした。


「千里中央」の歴史(その8)

千里中央大阪府 豊中市・千里ニュータウン)、心療内科 精神科「医療法人秀明会 杉浦こころのクリニック」の杉浦です。
今回は『「千里中央」の歴史』の8回目です。引き続き、千里中央について詳しく触れたいと思います。
【続き→】〖千里ニュータウン建設決定のころ 昭和33年(1958年)~昭和34年(1959年) 開発前の姿〗
千里ニュータウンの建設が正式に決定したのは、昭和33年(1958年)5月。その年の秋からは用地買収が始まりました。
そして、翌34年(1959年)4月10日には、開発計画案が公表されました。その日はちょうど皇太子殿下(現在の天皇陛下)ご成婚の日でもありました。
この公表を機に地価がつり上がりはじめ、用地買収は次第に難しくなっていきました。折から日本経済は「神武景気」に続く「岩戸景気」(昭和33年~36年)に入っていました。
そんな中、現地調査と用地買収が進められ、マスタープランの検討も始まりました。
そのころの千里千里丘陵)はどんな姿だったのでしょうか。
■樹林に覆われた数群の千里丘陵
「当時の風景は、樹林に覆われた数群の千里丘陵と、その間に谷間があるだけで、昭和9年(1934年)に移転してきた大阪市立弘済院(古江台)や、在来からあった山田や上新田などの集落を除けば、ほとんど人影も見当たらない寂しい土地でした。
わずか数条の山道は、ジープがやっと通れるという状態で、ところどころで山バトやウサギ、キジなどがみられ、ウグイスも聞かれました。その一方で、マムシが飛び出してきたりするのも珍しくはありませんでした」
当初から千里(千里丘陵)の開発事業に携わってきた方によると、当時の模様をこのように記しています。
現在の古江台の中ほどには、10戸ばかりの農家があったが、長い間、電気が通ってなかったといいます。
■映画のロケ地だった!
電柱もほとんどないこのような千里丘陵の風景は大阪府下でも珍しかったので、時代劇のロケ地としてずいぶん重宝されていたようです。
先ほどの方の記述は続きます。
「ジープで現地調査に赴くようになってからでも、時代劇のロケに出くわすことが何度かありました。
しばしジープを止めて、市川右太衛門さんの派手な所作に驚いたり、撮影の合間に近くの土手の上で若いお姫様役などの女優さんを周囲に集めて、なにか楽しそうに時間をつぶしていた三益愛子さんのしぐさなどに、なんとなく納得しながら、その場を離れて次の調査へと急いだものでした」
後に、造成工事が南から北へと移って行ってもなお、工事用の小屋にカヤ(茅)をかぶせるなどしながら、しばらくはこのようなロケが続けられていたといいます。
■奉行所となった元庄屋屋敷と長屋門
映画ロケといえば、上新田の元庄屋屋敷もそうでした。先年、長屋門などは近くに改築移転したため以前ほどの面影はなくなったが、戦後は盛んに映画のロケが行われたところです。
この長屋門は、奉行所を思わせる雰囲気。旧鍋島藩のものといわれる立派なもので、人力車やかつぎ籠(かご)もあったといいます。さらに中庭には年貢米を計った石だたみも残されていました。
夏目俊二の「紫頭巾」や頭師孝雄の「ピカ助捕物帳」もこの長屋門が舞台。小林桂樹や団玲子も撮影でやってきたといいます。
上新田の元庄屋さんは祖父の時代に、現在の千里中央あたりの地主さんでもありました。今の千里セルシーあたりは大きな炭焼き場だったと元庄屋さんはいつか語っていたものです。
山田東の元庄屋屋敷もロケの舞台になりました。こちらも大変立派な長屋門。山田川に沿った街道筋は、今もその風情を、残しています。たんぼはよく水をからしたといいます。
山は山田、佐井寺、上新田、下新田、熊野の農家も所有、明治時代からモモづくりをしてきたが、大正の初めに害虫の大発生でモモがほとんど破滅状態になりました。
米もモモも不作、困った農民たちは発想を転換し、タケノコづくりに精を出すようになったのです。
開発直前の千里(千里丘陵)は、したがって随所に竹やぶが広がっていたのです。
以上、千里中央駅直結・千里セルシー3階・豊中市、心療内科「杉浦こころのクリニック」の杉浦でした。


「千里中央」の歴史(その7)

千里中央大阪府 豊中市・千里ニュータウン)、心療内科 精神科「医療法人秀明会 杉浦こころのクリニック」の杉浦です。
今回は『「千里中央」の歴史』の7回目です。引き続き、千里中央について詳しく触れたいと思います。
【続き→】■行き詰まった公営住宅の建設
各所に団地が生まれ、「団地族」という言葉が流行したのはこの頃です。民間の賃貸住宅建設もようやくエンジンがかかってきました。
しかし、問題がでてきました。郊外では、古くから住む住人と、新住人との交流の難しさが浮き彫りになってきました。
また、せっかく公営住宅が建っても商業施設や教育施設が思うように整備されないことから、生活は不便だし、子供の教育にも支障が出てきました。
さらに問題は、民間の無秩序な開発もあって地価が急騰したこと。「できるだけ安く住宅を提供する」ことをモットーとする府営住宅は次第に都市郊外に押しやられ、求める「近くて安い土地」選びはそろそろ限界に達していました。
有力候補にのぼった千里丘陵
「これからの住宅対策は、これまでの団地主義では解決できない。都市として整備され健康で文化的な生活を享受できるまちづくりをめざさなくては…」
大阪府の幹部が発想を転換し、ひそかに新しい形の住宅都市(ニュータウン)の検討に入ったのは昭和31年からでした。
まず最初は適地調査でした。調査は広範囲にわたったが、適地として候補にのぼったのは生駒山麓、枚方地区、泉南地区、羽曳野地区、そして泉北地区と千里丘陵でした。
いずれも2000ha(約600万坪)クラスで、住宅都市を建設するのにふさわしい土地でした。
この動きを鋭敏に察した該当の自治体が、絶好のチャンスとばかりに盛んに誘致合戦を繰り広げました。そんな中で大きくクローズアップされるようになったのが千里丘陵でした。
千里丘陵に反対の意見もありました。「大阪は淀川をはさんで南北に分けられるが、北の方がより発展度が高い。府下全体の均衡ある発展をはかるためには、開発の遅れている南部または東部を選ぶべきではないか」というのでした。
■「待った」がかかった昭和31年末
いずれも水と交通の便に難があったが、激しい南北論争の末、最終的に候補を絞られたのはやはり千里丘陵でした。
大阪市の中心部からおよそ10キロと距離が頃合いであること、国鉄(現JR)や阪急の沿線に近いこと。さらに、将来は高速道路(名神や中央環状線・中国自動車道のこと)が計画されているなど、近未来の将来性を考えると最も適地でした。
こうして、府の最高首脳会議に開発計画が持ち込まれたのは、昭和31年秋のことでした。
しかし、当時の赤間知事は、首を縦に振らなかったのです。
実は、住宅政策のほかに、経済政策として大工業地帯の建設計画も始まっていたからです。現在の堺泉北臨海工業地帯です。結果的には、起工式が千里ニュータウン(昭和36年10月)より約1年(昭和37年8月)遅れることになるが、「経済が先」の方向ですすんでいたからでした。
どちらも大阪府始まって以来の資金を必要とする大事業。大阪府にとって二大事業の同時進行はやはり難しいです。
それにもまして、日本ではまだ前例のないニュータウン建設。先進国の調査もそんなにできていない段階で「果たして府の役人で成し遂げられるのか」というのが赤間知事の本音であったようです。
かくして新年度(昭和32年度)当初予算では「千里は一応見送り」となりました。
しかし、建設関係担当者の「千里ニュータウン開発の思い」は増すばかり。開発範囲を大中小の三通りを作成するなど、調査研究が続き、その年の9月府会でついに初めて予算(調査費)を獲得、千里丘陵の情況調査と地形の原図づくりがはじまったのでした。
以上、千里中央駅直結・千里セルシー3階・豊中市、心療内科「杉浦こころのクリニック」の杉浦でした。


「千里中央」の歴史(その6)

千里中央大阪府 豊中市・千里ニュータウン)、心療内科 精神科「医療法人秀明会 杉浦こころのクリニック」の杉浦です。
今回は『「千里中央」の歴史』の6回目です。引き続き、千里中央について詳しく触れたいと思います。
【続き→】■千里中央(新千里東町)の開発計画(千里ニュータウン計画 J地区)
千里丘陵は標高60メートルから100メートルの高低差の大きい丘陵地で、ほぼ中央を南北方向に大きい尾根が走っています。全体は北高南低の地勢で、農業用水地や大きい二つの池と数個の小池があります。樹木は竹林が多く、松林、柿木も散在しています。このJ地区の西側を占める地区は、千里ニュータウン全域での中心地でもあり、さらに将来、大阪地方全体での業務地区センターといえるように設計されています。このため、この地区の住区公園は、住区から西のほうに偏るが、池や自然を大幅に残す自然公園として上述の地区中心と住宅地とを分離するため、特に緑地を集約した形で計画しました。また、大地区中心に隣接する住区として千里ニュータウンの中でも最も高密度な計画でセットされました。
この地区で特に強調しなければならないことは、歩車分離が徹底的に考慮されたことです。そして地区外との連絡も含めて七つの歩道橋を設け、専用歩道ものパターン化を一応完全な形で確立したのです。(「千里ニュータウンの建設」(昭和45年3月 大阪府発行)より引用)
千里千里丘陵)開発への胎動 建設の背景と建設決定の前夜
昭和31年(1956年)~昭和32年(1957年) 神武景気時代の深刻な住宅難〗
大阪に「新しい住宅都市」(後の千里ニュータウン)を建設しようという動きが出たのは昭和30年代に入ってすぐのころです。
そのころの日本は、戦後の混乱から立ち上がり「神武以来の好景気」(神武景気・昭和29年~31年)にわいているときでありました。
しかし深刻なのは大阪の住宅難でした。出生ラッシュに加え、大阪に職を求め地方からやってくる人たちで人口は急激に増加。その流入人口は年間20万人におよび、加えて早くも核家族化がすすみはじめたこともあって、住宅需要は増すばかりでした。
昭和30年の調査では、大阪全体の住宅戸数はほぼ戦前なみに戻ってはいたが、なお18万戸が不足。特に低所得者に住宅困窮者が多く、これらの人々のために、どうしても低家賃の公的住宅を提供しなければならない事情となっていました。
大阪府としても、国の施策に沿いながら府営住宅を年間3千戸程度はコンスタントに建設するシステムを確立していたが、建てても建てても追いつかぬ状態が続いていました。
以上、千里中央駅直結・千里セルシー3階・豊中市、心療内科「杉浦こころのクリニック」の杉浦でした。


「千里中央」の歴史(その5)

千里中央大阪府 豊中市・千里ニュータウン)、心療内科 精神科「医療法人秀明会 杉浦こころのクリニック」の杉浦です。
今回は『「千里中央」の歴史』の5回目です。引き続き、千里中央について詳しく触れたいと思います。
【続き→】室町時代の当地方のことを物語る資料は、豊中市南郷の今西春定氏所蔵文書で、それに山田荘山田村からの年貢の記録があります。また「更級日記」(11世紀後半に菅原孝標の娘・橘俊通の妻がしるした)に山田地方のことを記した次の文章があります。
「さるべきよう有りて秋ごろ和泉に下るに、淀というよりして道の程のおかしう哀なる事いひつくすべうもあらず。高浜というところにとどまりたる夜、いと暗きに、夜いたう更けて、舟の揖の音きこゆ。問うなれば遊びのきたるなりけり。人々興じて舟にさしつけさしたり。遠き火の光に、ひとへの袖ながやかに、扇さし隠して歌うたひたる。いと哀れに見ゆ」
吹田荘の南部を高浜と称しました。遊びとは遊女です。淀川河口に当たる当時の吹田地方は舟の仮泊所で、遊女なども江口、神崎あたりから訪れたものらしいです。
(注)朝日新聞社発行の古典全書によると、高浜は大阪府三島郡本町の淀川の岸にあったとしています。
今日では千里山とは吹田市北方の丘陵地帯の一部をさすが、もとは、もっと西北方豊中市桜井谷芝原の待兼山、刀根山、北豊島の玉阪、熊野田から上新田にかけてのあたりをさしたものであるといいます。一名遠寝(とね)山といい、古来景色がよいところというので、待兼山、たまさか山、島熊山、寝山が歌にうたわれています。待兼山、たまさか山は現在では千里から西北の地であるが、今日の千里山あたりをふくんでいます。
清少納言の「枕草子」に「山は待兼山、たまさか」とあるように平安時代から知られており、当時の重要な交通路、太宰府道が待兼山の北部を通過しています。そのやや東方の萱野は西国への旅行者の宿泊地でありました。
近世になって、明応5年(西暦1496年)蓮如上人が大阪生玉在石寺に本願寺を創建し、のち天文元年(西暦1532年)孫証如は、この別院を本山に定めました。大阪の地はその門前町として栄えたが豊臣秀吉はこの地の重要性に着目し、天正11年(西暦1583年)大坂城を大阪に築きました。千里地方はその後背地の一部となり、大阪の繁栄と関係するところ大であったと想像できます。
その当時山田千里地方の集落は山田上村、山田中村、山田小川村、小川村枝郷別所村、山田佐井寺村、片山村がありました。また元和から寛永にかけて山田の新田村である山田上新田村、山田下新田村が誕生しました。これらの諸村は元和元年(西暦1615年)から徳川氏代官の支配地であったが、寛永2年(西暦1625年)板倉周防守重宗の領地となり、寛文9年(西暦1669年)4月から淀藩主石川主殿頭憲之の領地となり、続いて正徳元年(西暦1711年)5月同じく淀城主松平丹波守光熙の領地に転じ、享保3年(西暦1718年)同じ淀藩主松平左近将監乗巴に移り、享保8年(西暦1723年)5月同じく淀藩主稲葉丹波守正知の領地となり、同氏が世襲し美濃の守正邦にいたって明治2年(西暦1869年)6月上納しました。
明治4年(西暦1871年)7月に淀県に属し、同11月大阪府の管轄となりました。記録によると、これらの村々の石高が非常に増大していることは、近世中期以降に千里山丘陵の開発が盛んであったことを示しています。
明治の初期山田千里山地方の生産を示すものとしては、明治14年(西暦1881年)内務省が編集した「群村誌」や明治13年(西暦1880年)「上新田農事調」同14年の「下新田農事調」などがあり、これらの農事調には米、大豆、大角豆、小豆、綿、裸麦、豌豆、喬豆、春筍、夏桃、大根、菜種、薪柴、甘藷、茄子、胡瓜、越瓜、夏柿、水菜、蕪、4月菜、蕃椒等の作物がしるされています。
(「千里ニュータウンの建設」(昭和45年3月 大阪府発行)より引用)
以上、千里中央駅直結・千里セルシー3階・豊中市、心療内科「杉浦こころのクリニック」の杉浦でした。


「千里中央」の歴史(その4)

千里中央大阪府 豊中市・千里ニュータウン)、心療内科 精神科「医療法人秀明会 杉浦こころのクリニック」の杉浦です。
今回は『「千里中央」の歴史』の4回目です。引き続き、千里中央について詳しく触れたいと思います。
【続き→】■千里千里丘陵)の歴史
千里丘陵にいつごろから人間が住みついたかは、はっきりしないです。千里丘陵の周辺部には歴史的遺跡が比較的多いが、千里丘陵内部の地質が砂れきないしは粘土で、風化によって浸食されやすいため肥料分に乏しく、また雨の少ない地域であるため、人の居住した形跡が認められないです。千里丘陵の間にため池を作って農業を営み始めたのは、江戸時代からではないかと考えられます。
ただ、山田や佐井寺などの良質の水がわくところでは古くから集落が発展したようです。また千里丘陵の南部にある旧垂水村の地域においては、古くから豊富なわき水があり、垂水(たるみ)のような地名が生まれました。垂水神社、泉殿神社等があったことは、このようなわき水や泉のかたわらに集落があったことを物語っています。
文献によると、古代に吹田地方に住んだと思われる氏族に難波吉師部(きしべ)があり、今日の吹田市岸部が、その住地であったと推察できます。吉師部の祖は古事記によると神功皇后の新羅征伐帰還後、謀反した忍熊王(おしくまのおおぎみ)が難波吉師部の祖、伊佐比宿称(いさひのすくね)を将軍とし、神功皇后とその皇太子方の将軍丸邇(わに)の臣の祖難波波根子建振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)と戦った話があります。
垂水神社(式内)は古代では一流の大社で、境内のわき水はかんばつでもかれなかったので崇拝されたと考えられます。またそのわき水を取り囲んで集落が形成されたことが想像されます。万葉集に垂水を歌ったものがあり、とくに巻7の摂津作歌二十一首の中につぎの句があります。
「命を幸(さき)く吉(よ)けむと石(いわ)ばしる垂水の水を結びて飲みつ」
とあるのは摂津の地名を読み込んだ歌であるから、あるいはこの垂水の地の泉のことをさしているのではないかと思われます。
延喜式にある古社として有名なのは嶋下群に鎮座する伊射奈岐神社二座です。この社の一座は大字山田小川の西南の中腹にあり、伊装諾命をまつり、一座は字佐井寺にあるもので、今は春日と称しているものであると考えられます。社殿には雄略23年伊勢皇大神宮の斎宮倭姫命(やまとのひめのみこと)の命により、その臣豊足彦と称するものが五柱の皇太神を奉祀すべき霊地を諸国にもとめ、この地にまつり、山田の原と称したといいます。これは伊勢の国山田の原の名を称したという説です。山田とは山間の田というところが地名になった場合が多いので、一概に伊勢の山田の名を移したという説には従いがたいです。伊射奈岐命・伊射奈美命男女2神が偉大な生産の神であることから農民の間で深く信仰されたということが考えられます。
また、この地方の古寺として早くから文献にあらわれているものに佐為寺があります。弘仁5年(西暦814年)2月および同7年2月に嵯峨天皇が遊猟の折り、佐為寺および百済寺の優民に綿を施し、交野から帰京したとあります。(類聚国史32、幸32天皇遊猟)この佐為寺が今日の佐井寺の前進ではないかと推定されます。荘園制時代の山田垂水地方が荘園文書にあらわれてくることは「皇極紀」や「類聚国史」にでています。
以上、千里中央駅直結・千里セルシー3階・豊中市、心療内科「杉浦こころのクリニック」の杉浦でした。