日別アーカイブ: 2016年10月17日

「千里中央」の歴史(その4)

千里中央大阪府 豊中市・千里ニュータウン)、心療内科 精神科「医療法人秀明会 杉浦こころのクリニック」の杉浦です。
今回は『「千里中央」の歴史』の4回目です。引き続き、千里中央について詳しく触れたいと思います。
【続き→】■千里千里丘陵)の歴史
千里丘陵にいつごろから人間が住みついたかは、はっきりしないです。千里丘陵の周辺部には歴史的遺跡が比較的多いが、千里丘陵内部の地質が砂れきないしは粘土で、風化によって浸食されやすいため肥料分に乏しく、また雨の少ない地域であるため、人の居住した形跡が認められないです。千里丘陵の間にため池を作って農業を営み始めたのは、江戸時代からではないかと考えられます。
ただ、山田や佐井寺などの良質の水がわくところでは古くから集落が発展したようです。また千里丘陵の南部にある旧垂水村の地域においては、古くから豊富なわき水があり、垂水(たるみ)のような地名が生まれました。垂水神社、泉殿神社等があったことは、このようなわき水や泉のかたわらに集落があったことを物語っています。
文献によると、古代に吹田地方に住んだと思われる氏族に難波吉師部(きしべ)があり、今日の吹田市岸部が、その住地であったと推察できます。吉師部の祖は古事記によると神功皇后の新羅征伐帰還後、謀反した忍熊王(おしくまのおおぎみ)が難波吉師部の祖、伊佐比宿称(いさひのすくね)を将軍とし、神功皇后とその皇太子方の将軍丸邇(わに)の臣の祖難波波根子建振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)と戦った話があります。
垂水神社(式内)は古代では一流の大社で、境内のわき水はかんばつでもかれなかったので崇拝されたと考えられます。またそのわき水を取り囲んで集落が形成されたことが想像されます。万葉集に垂水を歌ったものがあり、とくに巻7の摂津作歌二十一首の中につぎの句があります。
「命を幸(さき)く吉(よ)けむと石(いわ)ばしる垂水の水を結びて飲みつ」
とあるのは摂津の地名を読み込んだ歌であるから、あるいはこの垂水の地の泉のことをさしているのではないかと思われます。
延喜式にある古社として有名なのは嶋下群に鎮座する伊射奈岐神社二座です。この社の一座は大字山田小川の西南の中腹にあり、伊装諾命をまつり、一座は字佐井寺にあるもので、今は春日と称しているものであると考えられます。社殿には雄略23年伊勢皇大神宮の斎宮倭姫命(やまとのひめのみこと)の命により、その臣豊足彦と称するものが五柱の皇太神を奉祀すべき霊地を諸国にもとめ、この地にまつり、山田の原と称したといいます。これは伊勢の国山田の原の名を称したという説です。山田とは山間の田というところが地名になった場合が多いので、一概に伊勢の山田の名を移したという説には従いがたいです。伊射奈岐命・伊射奈美命男女2神が偉大な生産の神であることから農民の間で深く信仰されたということが考えられます。
また、この地方の古寺として早くから文献にあらわれているものに佐為寺があります。弘仁5年(西暦814年)2月および同7年2月に嵯峨天皇が遊猟の折り、佐為寺および百済寺の優民に綿を施し、交野から帰京したとあります。(類聚国史32、幸32天皇遊猟)この佐為寺が今日の佐井寺の前進ではないかと推定されます。荘園制時代の山田垂水地方が荘園文書にあらわれてくることは「皇極紀」や「類聚国史」にでています。
以上、千里中央駅直結・千里セルシー3階・豊中市、心療内科「杉浦こころのクリニック」の杉浦でした。