緒方洪庵と尾道 7月6日

緒方洪庵といえば大変に高名な幕末の蘭方医です(写真1)。洪庵が大阪の船場に開いた適塾(正式には適々斎塾 写真2)はよく知られており、その門人には福沢諭吉(写真3)、大村益次郎をはじめ多くの大先達が輩出されています。

日本の医学界では洪庵はあまりに大きい先輩であるため近寄ることも恐れ多く、遠いところにいる大人物といっても過言ではないかもしれません。ところが先日、偶然立ち寄った尾道の町で洪庵の足跡に遭遇し、急に親しみ易い先生となってきました。それについて今回お話したいと思います。

洪庵の一生をみますと1810年に岡山の下級武士の家に生まれ、16才で大阪に出向き蘭方医学を学びました。医者になろうとした動機は自分が病弱であったこと、またコレラなどの疫病で多くの人が亡くなることを助けたいとの思いからといわれています。21才で江戸に出て勉学に励み、さらにその後、長崎で医学の研鑽を積みます。1838年には大阪・瓦町で適塾を開設しました。
洪庵が挙げた医学的な業績(天然痘の予防活動、コレラの治療、医学書の刊行など)は実に素晴らしいものであり、輝く存在として日本歴史に残っています。洪庵がいなければ明治維新の改革が円滑に運ばなかったのではないかとさえいわれています。

洪庵はただ医師として秀逸であっただけでなく、日記や和歌などの文筆も残した文化人でもあります。1862年、母の米寿を祝うために故郷・岡山に帰った時のことを日記に綴っております。洪庵はこれを「壬戌旅行日記」と名づけ、岡山から尾道、四国と回って大阪に帰った旅行記を書いています。その筆まめのおかげで今日、洪庵の教養人としての一面を知ることが出来ます。尾道に来訪した時、洪庵は風邪のため体調不良で足を引きずる状態であった様子です。詠んだ歌は

軒しけく たてる家居よ あし曳の 山のをのみち 道せはきまて

であります。現在、「文学のこみち」を歩きますとこの歌の石碑が立っております(写真4)。尾道は山と海がせまっており、山に沿うように家々が立ち並び道は狭くて急峻です。今回、実際に尾道の急な坂道を歩いてみましたが、息が弾みます。足を曳いて歩く洪庵の姿が想像できました。今日ならば山上にある千光寺までロープウェイで10分とかからずに行くことが出来、実に快適で雄大な眺めを楽しむことが出来ます(写真5)。

尾道といえば先ず林芙美子が連想されるでしょう。しかし医師、緒方洪庵も尾道の「文学のこみち」で松尾芭蕉、林芙美子、正岡子規、志賀直哉など居並ぶ文豪・俳人とともにならんでいるのです。

門人の福沢諭吉が書いているように洪庵は「たぐいまれなる高徳の君子」でありました。洪庵自身も「医師というものは、とびきりの親切者以外は、なるべき仕事ではない」と門人に語っていました。その教えは「扶氏医戒乃略」に残されていますが、その中に「人のために生活して、自分のために生活しないことが医業の本当の姿である」とあり、いまでも立派に通じるものであります。

このように洪庵の日記・和歌を読むと誠実で温厚な人柄がしのばれます。ですからそこに医師の先輩として敬愛の念を持ち、親しみやすい先生と感じたわけであります。

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写真1 緒方洪庵(ウィキペディアから引用させていただきました)

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写真2 適塾(ウィキペディアから引用させていただきました)

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写真3 福沢諭吉(郵政省のホームページから引用)

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写真4 「文学のこみち」にある石碑

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写真5 ロープウェイからみた千光寺