月別アーカイブ: 2008年2月

春の兆し

今日で2月も終わり、明日から3月になります。
早朝はまだ寒さがありますが、外の空気は春めいてきていると感じます。
冬の間、我慢していたこと、暖かくなったらしようと思っていたことも多いのではないでしょうか。
これからは一日一日春らしさが増してゆきます。
さあ、元気を出して活動して行きましょう。


花のある風景

花はいいですよね。
クリニック前の花壇には昨年の8月から花を植えていて、これからも定期的に植え替えをしようと思っています。
色とりどりの花を見ていると心が和みます。
クリニックの前を通られる方達が、花のある風景を少しでも楽しんでいただければ幸せです。


看取り

昨夜来の降雪で大阪でも今季2回目の積雪となりました。
まだ粉雪が舞う中、服部緑地を歩いて来ましたが、白色に変化した木々や広場は私の目には幻想的に映りました。
また今ちょうど見頃の紅梅の花に雪が積もった光景は、可憐で一種の風情を感じました。
昨年の4月に私は最愛の父を肺がんで亡くしました。
1月半ばに体調を崩し、2月に入院した時には肺がんが脳にも転移していることが判明し、病状は急速に悪化してゆきました。
4月の初めに家族全員の希望で病院から生駒市の自宅に戻り、最期の3週間を住み慣れた家で過ごさせました。
薄れていく意識の中で、父はどのような思いで過ごしたのかは知ることはできませんでしたが、母と私、姉妹の4人に迷いはなく、痰の吸引などで少し苦労はありましたが、病院に入院していた時に比べるとずっと明るい気持ちで看病することができました。
最期に息を引き取った時、悲しみは当然ありましたが、家族全員が家で父を看取れたことを満足に思い、また父が我々家族から心から愛されていた存在であったことを深く感じました。
がんの終末期を自宅で看取ることは、けっして簡単ではありませんが、それは本人のためである以上に、死の後に訪れる家族の悲嘆を慈愛や感謝に昇華させ得る望ましいセレモニーの在り方かも知れません。


虚心坦懐

先週の連休の時に久しぶりに摩耶山方面にハイキングに行きました。
三宮から新神戸を抜けて布引の滝に入り、地蔵谷を遡行し摩耶山を目指しましたが、沢沿いの道が分からなくなり迷いそうになったので、結局引き返すことにしました。
山道を歩いていると不思議と心が安らかになり、物事を素直に考えることができるように感じます。
その結果自分の未熟さやいたらなさを自覚できたり、それまで見えなかったものがはっきりと見えるようになったりして、これからの自分の生き方にも少なからず影響を受けるように思われます。
人間は考える葦であると言われますが、歩きながらの思考はそういう意味で虚心坦懐に心を使うことができるように思います。


若さとは?

いつまでも若さを保ちたいと誰もが思うことでしょう。
では若さとは何なのでしょうか?
私は必ずしも年齢の若さや見た目の若さとは限らないと思います。
それはいつまでも夢を追い続ける心や、希望を叶えようと努力する気持ちからその人の全体に醸し出されるムードではないかと考えています。
ですからそれはお金を出して得れるものでもなく、人から与えられるものでもありません。
一言で言えば自分を磨こうとする前向きの心の現れだと思っています。


雪景色

昨日から大阪でも久しぶりの本格的な雪となりました。
今朝服部緑地公園を歩いてきましたが、昨日の雪はまだ多く残っていて雪化粧した木々や花壇など、立春を過ぎてからの冬景色を感慨深く観賞しました。
開院して3ヶ月が過ぎましたが、健康管理を任せて頂いている患者さんも少しずつ増えてきました。
一般に病気を抱える患者さんは暗い印象を持たれがちですが、皆さん結構明るく前向きで、私が逆に勇気付けられることも少なくありません。
不況が続き閉塞感のある今日ですが、まだまだ諦めることはない、元気な人も結構いることは確かで、案外突破口はすぐ先に見つかるかも知れません。
もう中央の政治に期待する時代は終わったと思った方が良いのでしょう。
これからは地域の活性化が求められる、小さな単位での人々の和が盛り上がることが、少しずつ大きな和になり、より広い単位での活性化に繋がると期待せずにはおれません。
そのためにはまずより多くの人が元気になる、つまり日々の暮らしに喜びを感ずることが大切で、その方法としては例えば町単位での楽しいイベントの企画を増やすなど、人々が集い、人とのふれ合いを体験できる機会を増やすことも大事でしょう。
地域の人達が手を取り合って、元気を取り戻そうという気持ちを強く意識することが、一番大切なことかも知れません。


医師は患者が育てる

医師としての長年の経験から、医師は患者によって育てられるというのは言いえて妙と思われます。
つまり相性のよい患者との出会いによって、医師はその人を救うための努力と向上心の原動力を与えられ、医師としての能力と技術を高めてゆけるのです。
逆に礼節を弁えない患者に遭遇すると、多くの医師は自己防衛に努める結果、患者の要求に妥協した無難な医療しか提供できなくなるのです。
医師といえども一人の人間であって、神様ではない、心ない一言で傷つくことだってあるし、人を恨むこともあるのです。
医師の温かい対応を望むならば、患者側も最低限のマナー、思いやりや信頼の心を忘れてはならないと思います。


生きるということ

今日雨上がりの夕焼けを眼にしました。
きれいだなあと素朴にそう思いました。
人が生きていくということ、それは自分という存在を認めてもらうことに他ならないと思います。
むろん社会的に認められない存在としてでも生活することは不可能ではないかも知れませんが、本当に生きているとは言えないと思います。
沢山の人に認められ支えられながら、そのことに感謝の念を持って毎日を過ごすことができる、それが真に生きるということではないでしょうか。
そのためには最低限、人に対しての優しさであったり思いやり、信頼といったものが必要と考えます。
昨今、非常に多くの社会問題を目の当たりにしますが、その根本には現代社会で真に生きることに努力しない人が多くなったこと、つまり自分のことしか考えれない、厳しい言い方をすれば未熟な大人が増えたということがないでしょうか。
生きることの喜びと、それに対しての感謝の気持ちが私は人間にとって
最も大切であると信じています。


まごころ

まごころ、漢字で真心と書きますが、世の中で生きて行く上で大切なものの一つと考えます。
もしそんなものは必要ないと思われる人が多いとしたら、それは非常に不幸なことと言えるでしょう。
人に対して心を込めて何かをしてあげれることほど幸せを感じることはないと思います。
そして、そういう思いやりの心は苦労や悲しみに涙した数の多い人に、より育まれると信じています。
世の中には不合理なことは山ほどありますが、人を信じる心、人を愛する心が失われることほど悲しいことはありません。
純粋な人ほど報われる、そんな世の中であって欲しいと心から願います。


在宅医療

在宅医療、つまり自宅や老人施設などで生活する主として寝たきりなどの通院困難な患者に対して行われる、往診や訪問診療による医療サービスが近年国の主導で推進されようとしています。
入院でなく生活の場である居宅で治療を受けたいと希望する患者にとっては、その充実は望ましいことと思われます。
ただ、国の思惑はもっぱら医療費の削減にあります。
なぜなら在宅医療のほうが入院より医療費が格段に安く済むからです。
ちなみに入院だと特に検査や治療を受けなくても、ただ寝ているだけで
病院の規模などによっても差はありますが、概ね1ヶ月で30万円ほどは掛かるのに対し、在宅だと多くは10万円までで済み、そのために国は老人の入院の多く、特に社会的入院と呼ばれる特別な治療の必要がなく長期間の居宅代わりに使われることの多い療養病床を減らそうとしています。
確かに本来専門的治療を要する患者に行われるべき入院が、必ずしもそうではない患者、厳密には患者と呼ぶのが相応しくない、いわば居宅生活不能者にも多く適応されている現実があり、問題視されてもおかしくはないとは言えます。
いずれにせよ、今後在宅医療を充実してゆく必要があるとすれば、内科の診療所が主として受け皿になると考えられ、当院も積極的に応じて行くつもりですし、できれば終末期の緩和治療にも力を注ぎたいと考えています。