カテゴリー別アーカイブ: 日記

不思議な絵

230830下垣内さん絵 (2)

我が家には父が持っていた絵が何点かあります。診療所をリフォームしたのを機に飾ろうとして倉庫から引っぱりだしてきました。その中ではこれが最も気に入った絵です。複雑な建物の形状、背景の朱色と前景の藍色が素敵です。

これは父が懇意にしていた下垣内末春さんという画家の作品です。この方は画家としてすごく有名という訳ではありませんが、我が家にも時々遊びに来られ、私も子供の頃何度かお会いした記憶があります。温厚で気さくな方であった印象があります。

この絵は北アフリカあたりの砂漠の中の城塞と勝手にイメージしていたのですが、額から出して絵の裏に書かれているタイトルを見て驚きました。「戦没者の館」(淡路島の一隅)Sept.1977  と書かれているのです。ネットで調べてみると、確かに南あわじ市の大見山という山の上に戦没学徒記念館という建物があり、それがモチーフになっていることがわかりました。設計したのはあの巨匠・丹下健三氏で、最盛期の作品として高く評価されているようです。1967年に、太平洋戦争で亡くなった約20万人の戦没学徒を慰霊するために建設されました。ただ丹下氏は発注団体との考えの相違からこの設計を自分の業績としては公表せず、竣工式にも出席しなかったそうです。

この建物は「戦没学徒記念 若人の広場」の一つの施設として公開されていましたが、資金不足や阪神淡路大震災の影響で閉館になり、放置されて廃墟のような状態になっていました。しかし再開を望む声が多く、2015年に若人の広場公園として再整備され、見学できるようになっています。

前景写真

(南あわじ市 若人の広場公園パンフレットから)

下垣内末春さんが鎮魂の思いでこの絵を描いたのか、建物のフォルムに魅せられてインスピレーションが沸いたのか、またそもそも何故この絵を父が持っていたのか今となっては確かめようもありません。私の記憶では家の中に飾られていたことはありませんので約半世紀日の目を浴びなかったことになります。様々な紆余曲折を経て再び日の目を浴びる名建築と、描かれた絵が長い眠りから覚めて自分の目の前に現れた不思議な運命の交わりを感じずにはいられません。


脱水症、熱中症のヒント

猛烈な暑さが各地で続いています。昨日はWebで熱中症、脱水症についての講演を視聴しました。講師は谷口英喜医師(済生会横浜市東部病院)で、脱水症についていくつかの著書を出されています。日本では珍しい、経口補水液の専門家です。あまり知られてないことをいくつか学びました。

・体の水分は約4割が筋肉、2割は皮膚にある。高齢になると下肢の筋肉量が減り、水分を保持しにくくなる。

・脱水症では体の痛みが出ることがある。痛みが出たら脱水症をも考える

・脱水症の身体所見3つ

① わきの下に発汗していない。(発汗が最後まで残るのがわきの下とひたい)

②ツルゴール:皮膚をつまんで、つままれた形から 3秒以上戻らない。

③ 爪毛細血管再充満時間:3秒以上親指の爪の先を押してみて、赤みが戻るのに3秒以上がかかる。

・熱中症の予防はとにかく ①蒸し暑さから逃げること、②脱水症を防ぐこと

・体温コントロールの75%は皮膚からの放熱、25%が発汗で行われる。熱中症になれば水分を補って血液量を増やし、皮膚からの放熱と発汗を促す。

・熱中症には経口補水液を一気に500~1000ml飲んでもらう。

・経口補水液は、水、ナトリウム120㎎/100ml、ブドウ糖2%が含まれている。スポーツドリンクより塩辛く、甘くないが水分の吸収が良く、腸への移動も速い。

・どれだけ飲のんでもらうか:食事が摂れるようになるまで。尿が出るまで。脱水症の所見が改善するまで。

 


リフォーム(5)

4か月かかった改修工事が終わり、5月10日から新装診療所で診療しています。「明るく、きれいになりましたね」と患者さんから好評です。

自慢の玄関

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待合室の椅子も変えました。玄関には殺菌灯付きスリッパロッカーを設置しました。

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処置室も広くなりました。

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会議・面談室を作り、栄養指導なども行いやすくなりました。

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第二待合室。患者さんが混んだ時に使います。

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第二診察室。発熱患者さんは別の入り口から入って頂き、ここで診察します。

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肝心の主診察室。クロスを変えて明るくしました。

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器はきれいになりました。これから中身も充実させたいと思います。

 

 


4か月かかったリフォームが終わりました。

今回のリフォームのポイントである段差の解消は、このとおり玄関スロープで解決してもらいました。庇も伸びたので雨が降っても濡れにくいです。

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配管工事のため南側の生垣は引退して頂き、新しいのを植えました。

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発熱患者さん用の第二診察室への入り口には昇降機を設置しました。

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トイレも大幅に回収して洗面台と別にしました。

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倉庫も収納力たっぷり。柱がぽつんと残っているのはリフォームならではの光景です。

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倉庫室の廊下側の窓だけ以前のものを残してもらいました。患者さんの目にはあまり触れないところですが、昭和感に浸れます。

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まだ引っ越し作業がありますが、診療所部分の内装、外構は出来上がりました。

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5月9日(火)まで休診し、10日(水)の再開に向けてこれから引っ越し作業に専心します。

 


リフォーム(3)

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リフォーム工事が始まって一か月半ほど経過しました。

スケルトン状態から、床が張られ、壁もできつつあります。

窓はサッシが入って面格子も変わり、今までの昭和的な感じから現代的な雰囲気になってきました。

床、壁、天井には断熱材が付けられ、快適な診療所になりそうです。

 

 

 


リフォーム(2)

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本年1月11日からいよいよ医院改修工事(リフォーム)が始まりました。まず残置物廃棄と解体作業が行われています。写真のように床と内部の壁が撤去され、スケルトン状態になっています。毎日見ていますが、「家ってこんなになってるのか」と驚いています。柱と天井は大部分残しますが、リフォームとはいえここまで解体すると「同じ間取りの新築」のような感じです。

もちろん工務店さん、設計士さんとは何度も打ち合わせて完成形は図面で確認していますが、これから実際にどのように出来上がってゆくのか楽しみです。


医院改修工事(リフォーム)

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患者さんには11月からお知らせしていましたが、新年1月11日から医院の改修工事(リフォーム)をすることになりました。

耐震補強、段差の解消、老朽部の補修、レントゲン室・第二診察室・第二待合室・面談室・トイレの整備などを行います。

5年前に同様の大規模リフォームを考え、業者さんに計画を依頼して見積もりまで出してもらいましたが、色々あって頓挫しました。

以後機会を待っていましたが、一年前にある工務店さんとご縁が出来、設計をしてもらってこの度契約に至り、念願のリフォームができることになりました。工事は4か月かかるため自宅を診療所に改装して診療を続けます。写真は自宅診療所の受付と処置室です。

リフォームでは間取りはそれほど大きく変わりませんが、細かいところが今風になるので楽しみです。

 


山奥のレコードコレクション

後者

コレクション

ステレオ

 

今月もカレンダー用写真撮影のため九度山方面へ向かいました。

今回は「くどやま森の童話館」に行ってみました。

ここは九度山町教育委員会の管理で、休校になった小学校の校舎を利用して絵本、童話、高野山関連の本を展示しています。

驚いたのは校舎の隣の離れにクラシックレコードのコレクションがあることです。長野県のある医師が生前に寄贈されたそうですが、1000枚余りあり、クラシックファンなら泣いて喜びそうなレコードがあふれていました。

ステレオもあって自由に聴くことができ、たまたま置かれていたチェロソナタを聴いてみましたがとてもいい音でした。

場所は九度山の街からさらに車で半時間ほどのなかなかの山奥です。管理の方も初めは「レコードを聴くのは今年初めてです。動くかな、、、」と言っておられました。

この素晴らしいレコードコレクションは色々な縁でこの山奥にやってきた訳で、そのことに意味があるのでしょう。しかしもう少し多くの人に聴いてもらえるしくみがあればなと思いました。


キイジョウロウホトトギス

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カレンダーのための写真を撮りに九度山へ行ってきました。今回の目的は上の写真の「キイジョウロウホトトギス」です。

今年7月に慈尊院の紙遊園という紙漉きを初体験しましたが、そこでこの花を栽培しておられるとお聞きしたので開花時期を何度も確認して伺いました。この花は紀伊半島南部の固有種で、自生していますが採集されることが多く、絶滅危惧種と認定されています。

「ジョウロウ」は漢字で「上臈」で貴婦人という意味です。夏の直射日光が当たると葉焼けして枯れてしまう繊細な花です。花は釣り鐘型で下を向いており、優雅で奥ゆかしい感じは名前の由来通りだなと思いました。

 


かつての野菜

 10年ほど前、自宅の庭で白菜を栽培しようとしたことがあります。冬に自分で鍋をするようになり、採れたての白菜を鍋に入れればさぞ美味いだろうという目論見がありました。しかし苗を買って植えてみて育ってくると色々な虫にやられて葉がボロボロになりました。そこで毎夜診療が終わってから葉についている小さな虫をペンライトで照らして取り除くことを繰り返しました。そうして何とか葉がさほど食べられずに残った株を収穫して食べようと思い、キッチンの流しで一枚づつはがして洗っていったら最後の一枚をはがすとナメクジが居座っていてびっくりしました。

 さすがにこの白菜の株は食べずに捨てました。そこですぐに思い浮かんだのは「ビニールハウスや農薬などがない時代はどうやって野菜を栽培していたのか?」という疑問です。例えば江戸時代の野菜はどうなっていたんでしょうか?

 こんなことを本格的に調べだすとそれだけで大研究になりますが、近代以前の人々の日常の食事には以前から興味があったので少し本をのぞいてみました。

 その名も「江戸の食生活(原田信男著、岩波現代文庫)」という本があります。この中で化政期(1804-1830)の地誌類の記述が紹介されていて、江戸に出荷する野菜としては大根、茄子、唐辛子、茗荷、小松菜、冬瓜、ごぼう、蕪、芋、ねぎ、三つ葉、くわい、蓮、菜物、人参が挙げられていました。ただ「菜物」がどんな種類なのかはわからずじまいでした。

 また「下級武士の食日記(青木直己著、筑摩書房)」という本では紀州藩の下級武士が江戸へ単身赴任した時の食事や日常生活が紹介されています。この中で日記を分析した論文の表が引用されていて、本人の家計簿でどんな野菜が何回登場するか表記されています。結果としては野菜類73回購入の内、トップ3は茄子22回、大根9回、ねぎ5回であり、その他は菜、豆、瓜、ごぼう、ほうれん草、などが並んでいました。

 私が痛い目にあった白菜について調べると、原産地は中国で、日本で栽培に成功したのは大正時代、主要野菜となったのは昭和初期ということでした。ほうれん草は江戸時代に中国から渡来しましたが、日本で普及したのは白菜と同じ時期ということです。逆に小松菜は江戸時代に現在の江戸川区小松川付近で栽培され始めたことが名前の由来で、同時代から広まっていたようです。茄子やねぎは奈良時代から食されてきたらしいです。

 「粗食のすすめ」の著者幕内秀夫氏が書いた短い食事に関するエッセイで、東京の神田市場で大正15年から約70年間青果の仲卸業をしていたという人物の話として、「市場で働きだした当時は、ねぎと大根の2つだけあれば八百屋ができたんですよ」というエピソードが書かれていました。

 茄子やねぎは虫の心配が少なく、栽培は比較的容易です。あくまで自分の調べた範囲ですが、かつて日本人は野菜としてはこの2種類や大根、人参、ごぼう等の根菜を多く食べていたのだと思います。比較的新しい白菜やほうれん草をことさらに問題視するつもりはないですが、古参の野菜も見直したいと思ます。